徳川綱吉はなぜ「犬公方」とまで呼ばれたのか?
徳川幕府の第五代将軍である徳川綱吉が「犬公方」と称されたのは、彼が発令した「生類憐れみの令」という極端な動物愛護政策、特に犬を手厚く保護したことに由来します。
しかし、単に「犬好きだったから」という言葉だけでは片付けられない、複雑な背景が存在しました。
「犬公方」の呼び名とその意味
「公方(くぼう)」とは、元々は朝廷に対する武家の長、すなわち征夷大将軍を指す尊称です。その将軍の呼び名に「犬」という言葉が冠された「犬公方」は、やや揶揄や批判の意味合いを含んで使われることが多かった呼称でした。
これは、綱吉の犬を重視する政策が、当時の庶民生活に少なからぬ影響や負担を与えたことへの反発も背景にあったと考えられます。
政策の根底にあった思想
綱吉が犬をはじめとする生き物を極端に保護した背景には、いくつかの要因が指摘されています。
仏教への信仰
綱吉は非常に学問熱心で、特に仏教(特に儒教と並び、新義真言宗)への信仰があつかったと言われています。生き物の命を尊ぶ仏教の教え、特に「不殺生戒(ふせっしょうかい)」の思想が、彼の政策に大きな影響を与えたことは間違いありません。
戌年生まれに縁を感じていた
綱吉は正保3年(1646年)の戌年(いぬどし)生まれでした。このことが、彼に犬に対する特別な縁を感じさせ、保護政策へと駆り立てた一因であるという説は広く知られています。当時、高名な僧侶から「犬を大切にすれば世継ぎに恵まれる」といった進言があったとも伝えられています。
子宝に恵まれなかった
綱吉にはなかなか世継ぎが生まれず、特に長男の徳松を幼くして亡くしてからは、後継者問題が深刻化していました。
こうした状況下で、子宝祈願の一環として、自身の干支である犬をはじめとする生き物を手厚く保護することで功徳を積み、神仏の加護を得ようとしたという側面も否定できません。
当時の社会からの評価は?
綱吉の政策は、生き物の命を軽んじる風潮があった当時の社会において、生命尊重の精神を広めたという側面もありました。
しかし、そのあまりにも極端な内容、特に犬を過剰に保護し、人々の生活にまで影響を及ぼしたことから、庶民からの不満や反発も大きかったと言わざるを得ません。
この評価の分かれる点が、綱吉という将軍の多面性を示しています。
徳川綱吉の「生類憐れみの令」とは?
「犬公方」徳川綱吉の代名詞とも言えるのが「生類憐れみの令」です。
この法令は、一般的に動物愛護の精神に基づくとされますが、その運用はしばしば過剰であり、特に犬に対する保護は徹底していました。
「生類憐れみの令」はどんな内容?
「生類憐れみの令」は、単一の法令ではなく、綱吉の治世(1680年~1709年)に発令された生き物の殺生を禁じる多数の法令・通達の総称です。
当初は捨て子や病人の保護、牛馬の遺棄禁止といった人道的な内容も含まれていましたが、次第に魚鳥類や昆虫に至るまで対象が拡大し、特に犬の保護が強化されていきました。
綱吉政権下では、犬はまさに「お犬様」として扱われました。
犬の登録と管理を行った
江戸市中の犬はすべて登録され、管理下に置かれました。飼い犬はもちろん、野犬に対しても手厚い保護が義務付けられました。
餌やりと治療の義務とした
人々は野犬にも餌を与えることを奨励され、病気の犬や怪我をした犬を見つけた場合は、役人に届け出て治療を受けさせる必要がありました。
犬の餌代が家計を圧迫することもあったと言われています。
犬への傷害罪を厳罰化
犬を虐待したり、誤って傷つけたり死なせたりした者には、厳しい罰則が科されました。武士であっても、犬を斬った罪で切腹を命じられたという記録も残っています。
巨大な犬小屋(犬屋敷)を建設
特に有名なのが、江戸郊外の中野や大久保、四谷などに作られた広大な犬小屋(犬屋敷)です。
これらの施設では、多い時には数万匹もの犬が収容され、専門の役人によって手厚く世話されました。その維持費は莫大なもので、幕府の財政を圧迫する一因ともなりました。
生類憐れみの令の「庶民生活への影響」
この過剰とも言える犬の保護政策は、江戸の庶民生活に大きな影響を与えました。
経済的な負担の増加
犬の餌代や、犬小屋の維持費は、最終的に庶民からの税金で賄われる部分も多く、経済的な負担増につながりました。
密告制度と社会不安
生類憐れみの令の違反者を見つけて役人に密告すれば報奨金が出るという制度も存在し、これが隣人同士の不信感を生み、社会不安を招いた側面もありました。些細なことで処罰されるのではないかという恐怖感が人々の間に広がったのです。
「犬>人」という本末転倒な状況に…
犬を傷つけた人間が厳罰に処される一方で、人間同士の争いよりも犬が優先されるかのような状況は、多くの人々にとって理不尽に感じられたことでしょう。「武士が犬に道を譲る」といった光景も見られたと言われています。
徳川綱吉が愛した犬たち
「犬公方」徳川綱吉は、特定の犬種を偏愛したというよりは、生き物としての犬そのものを大切にしたと考えられます。
しかし、当時の江戸にはどのような犬がおり、綱吉の身近ではどのように扱われていたのでしょうか。
当時の日本にいた犬種
江戸時代、日本には主に以下のような犬種が存在していました。
狆(ちん)
綱吉自身も、江戸城内で狆を可愛がっていたと言われる狆(ちん)。室内で飼われる愛玩犬として、特に上流階級の人々に人気がありました。
中国から渡来したとされる小型犬で、その愛らしい容姿と人懐っこい性格から、大奥の女性たちや富裕な町人にも愛されました。
日本犬(地犬)
各地には、その土地の風土に適応した「地犬(じいぬ)」と呼ばれる日本犬が多く存在しました。
これらは現在の柴犬、秋田犬、紀州犬などの祖先にあたる犬たちで、主に狩猟や番犬として飼育されていました。身体強健で、忠実な性格を持つものが多かったと考えられます。生類憐れみの令の下では、こうした野犬化した日本犬も保護の対象となりました。
犬を愛しすぎた将軍、徳川綱吉の人物像・性格
徳川綱吉の犬への並々ならぬ執着は、彼のどのような性格的特徴から生まれたのでしょうか。単なる動物好きというだけでは説明がつかない、その深層心理に迫ります。
学問を愛し、仏教に深く帰依した知識人
綱吉は幼少時から非常に聡明で、学問、特に儒学や仏教を熱心に学びました。将軍になってからも「学問将軍」と称されるほど、その探求心は衰えませんでした。
特に仏教の「生きとし生けるものは皆平等であり、命は尊い」という教えは、彼の政策決定の根幹にあったと考えられます。
この教えを極端な形で実践しようとした結果が、生類憐れみの令、そして犬への異常とも見える保護につながったのかもしれません。
母・桂昌院を深く敬愛していた
綱吉は、母である桂昌院(けいしょういん)を深く敬愛していました。桂昌院は京都の八百屋の娘から徳川家光の側室となり、綱吉を産んだ人物で、非常に信仰心の篤い女性でした。彼女もまた、綱吉の政策に影響を与えた一人とされています。桂昌院が帰依した僧侶からの進言が、綱吉の犬保護政策を後押ししたという説もあります。
後継者問題に悩んでいた
前述の通り、綱吉は世継ぎに恵まれませんでした。唯一の男子であった徳松の早逝は、綱吉にとって大きな心の傷となったことでしょう。
この後継者不在の不安が、彼を神仏への祈願や、功徳を積むとされる行為へと向かわせたと考えられます。特に自身の干支である犬を大切にすることで、何らかの奇跡や救いを求めていたとしても不思議ではありません。
ペット豆知識:犬の癒やし効果 現代では、犬などのペットと触れ合うことで「オキシトシン」という愛情ホルモンが分泌され、ストレス軽減や幸福感の向上につながることが科学的に証明されています。
綱吉の時代にこのような知識はなかったでしょうが、彼が犬との触れ合いの中に、孤独感や政治的プレッシャーからの精神的な安らぎや癒やしを無意識に求めていた可能性は十分に考えられます。
生真面目さで融通が利かない性格
綱吉は非常に真面目な性格であったと言われています。一度正しいと信じたことは、徹底的に貫こうとする傾向があったのかもしれません。仏教の教えや僧侶の進言を純粋に受け止め、それを厳格に実行しようとした結果、現実社会との間に大きな歪みを生んでしまったのではないでしょうか。
彼の政策には、理想主義的でありながらも、どこか融通の利かない硬直性が感じられます。この点が、彼の犬への執着を「異常」と見せる一因となったのかもしれません。
徳川綱吉と犬にまつわる衝撃エピソード
「犬公方」徳川綱吉の治世下では、犬をめぐる数々の驚くべきエピソードが生まれました。これらは、当時の犬がいかに特別な存在として扱われていたかを如実に物語っています。
犬の戸籍制度「犬改め」
江戸の町では、犬の数を把握し、管理するために「犬改め(いぬあらため)」という調査が行われました。
これは、現代でいうところの犬の戸籍調査のようなもので、飼い犬の数、毛色、特徴などが細かく記録されました。野犬についても、地域の役人がその数を把握し、幕府に報告する義務がありました。
武士も恐れた「犬への傷害」の罪
犬に危害を加えた者への処罰は極めて厳しく、身分を問われませんでした。
松平義里家臣の処罰事件では、小諸藩主・松平義里の家臣が、藩主の行列を横切ろうとした犬を槍で突いてしまいました。
これを知った綱吉は激怒し、この家臣だけでなく、監督不行き届きとして藩主の義里までも処罰の対象としたと言われています。この事件は、犬の命が人間のそれと同等か、それ以上に重んじられたことを示す象徴的な出来事として語り継がれています。
また、もし犬に噛まれたとしても、その犬に反撃したり、殺したりすることは許されませんでした。被害者はただ耐えるか、役人に届け出るしかなかったのです。
庶民にとっては、まさに「犬様」に逆らえない理不尽な状況でした。
世界最大級?「中野犬屋敷」の実態
江戸市中の野犬が増えすぎたため、幕府は江戸郊外に巨大な犬の収容施設を建設しました。その代表格が「中野犬屋敷(なかのいぬやしき)」です。
広大な敷地と豪華な設備
中野犬屋敷は、現在の東京都中野区一帯に広がり、約2万坪(約66,000平方メートル)とも言われる広大な敷地を誇りました。内部には犬たちのための犬舎が立ち並び、食事を与える場所、病気の犬を治療する施設なども整えられていたとされています。
専属の役人と手厚い世話
犬屋敷では、多くの役人が「犬御用役(いぬごようやく)」として犬たちの世話に従事しました。毎日、大量の米や野菜、魚などを使った餌が犬たちに与えられ、病気や怪我をした犬は獣医によって手厚い治療を受けました。その世話は人間以上だったとも言われています。
ペット豆知識:犬の感情表現 犬は非常に感情豊かな動物で、喜び、悲しみ、怒り、不安などを表情やしぐさで示します。綱吉がこれほどまでに犬を保護したのは、犬たちのそうした純粋な感情表現に心を動かされたからかもしれません。言葉は通じなくとも、犬が見せる忠誠心や愛情に、綱吉は特別な価値を見出していたのではないでしょうか。
犬のための葬儀と墓
驚くべきことに、死んだ犬のためにも手厚い措置が取られました。幕府の役人が犬の死骸を引き取り、丁寧に埋葬したと言われています。場合によっては、人間の葬儀のように僧侶が呼ばれ、読経が行われたという記録も残っています。まさに、犬を人間と同等、あるいはそれ以上に扱っていたことの証左と言えるでしょう。
これらのエピソードは、綱吉の犬への愛情が単なるペット愛好家のレベルをはるかに超え、国家レベルでの保護政策として展開されたことを示しています。その結果、江戸の町と人々の生活に大きな影響を与えたのです。
まとめ
徳川綱吉と「犬」の関係は、江戸時代の歴史の中でも特にユニークで、多くの議論を呼ぶテーマです。「犬公方」という呼び名は、彼の極端な動物愛護政策、特に犬を過剰に保護した「生類憐れみの令」に対する当時の人々の戸惑いや批判を反映しています。
綱吉がこれほどまでに犬に執着した背景には、戌年生まれという個人的な縁、仏教への深い帰依、そして後継者問題といった複雑な要因が絡み合っていました。
彼の治世は賛否両論ありますが、日本の歴史上、これほどまでに動物、特に犬の存在が政治の中心に据えられた時代は他にありません。徳川綱吉と犬たちの物語は、これからも私たちの興味を引きつけ、様々な議論を呼び起こし続けることでしょう。