犬のいる生活
いままで犬を何頭飼っただろうか。指折り数えると、懐かしい犬たちの顔が浮かんできます。
いま、最後の彼までは純血種ばかり、みな子犬で来てくれて、私に触れ合い、私に看取られて逝きました。みな、15~16歳の命を私との生活に編み合わせて生きてくれました。
身近に飼うと、犬が人間にみえてくる。犬はこんなに一心に人に尽くせるものか、と感動するのです。
健太のこと
そうです。犬と生活をすると滅私の心に気付かされるのです。
(※滅私:私利私欲を捨て去ること)
さきほど、「最後の彼までは純血」と書きましが、私は彼が5年前に逝って以来、犬を飼う気持ちが萎えているのです。
最後に飼った、彼の思い出の余りの「深さと重さ」を、今もなお引きずっているのです。
健太、雄の雜種でした。
世田谷は奥沢駅の商店街で、傷だらけのまま、ガードレールに繋がっていた所を拾われて17年、私と健太の生活はドラマでした。
救われた身と知ってか、心を開き、思いを私にぶつけてくれた健太、雜種のたくましさと才覚と、なによりも健気な献身の証しを健太に見た私の感動は、言葉には出来ないものでした。
そして、その思いの深さと重さから、私にはもう犬が飼えなくなりました。
彼は今、庭の植え込みにひっそり眠っています。
焼くに忍びず土に返して、生前の生活具を供えて眠ってもらっています。
父母を亡くした時のような思いとは別の、生々しい情感で、健太と私は今もしっかり繋がっています。
「飼う」とはおこがましい事
犬を飼おうと思われるあなたに、一言だけお話ししたい事があります。
ご自分の楽しさのために、ご自分が和むために、ご自分のストレスの「消しゴム」として犬を「飼う」のはやめて欲しいのです。
犬は「苦楽を一緒にするパートナー」だと思って欲しい。「飼う」という上から目線は止めて欲しい。
あなたの目線を低くして、犬の目線でじっと「見つめ合って」ください。
すべてがそこから始まります。
まとめ
健太の話は「わたくしごと」ですが、私が書かせていただくコラムには、健太が立派に生きています。
ひとこと書くごとに、彼への懐かしい息づかいが感じられます。
犬を飼うことの本当の意味を、これを読んでいただいたみなさんが、じっくり考えていただければ、私はこの上ない喜びです。