麻酔からの回復が遅いと言われるサイトハウンド種
イタリアングレイハウンドやウィペット、ボルゾイなどのサイトハウンドは、手術などで麻酔をした場合に麻酔からの回復に時間がかかったり、術後に他の犬種ではもっと稀にしか起こらない副作用が出やすかったりすることが知られています。
これは、サイトハウンド種の犬では他の犬種より極端に脂肪が少ないことや血液の組成が犬の平均的なものとは異なっているからではないかと昔から言われていましたが、それに加え2000年頃からは、薬物を分解するための酵素がサイトハウンドでは少ない可能性を示す研究結果が出ていました。
長年サイトハウンドでの麻酔問題を研究し続け、グレイハウンドでの麻酔法も開発したと言う獣医師であるコート教授は、現在もアメリカのワシントン州立大学獣医学部で研究を続けています。
そしてこのたび、同大学の研究チームが、その酵素に関しての遺伝薬理学的研究を行って薬物代謝に関するサイトハウンドと他の犬種との違いを見つけ、サイエンティフィック・レポーツに発表しました。
DNAリサーチから判った意外なこと
研究チームは同大学獣医学部の病院のDNAバンクに保存されていたサンプルを使って、リサーチを実施しました。ある薬物を分解する酵素であるCYP2B11がないまたは少ないためにサイトハウンドは麻酔薬へ感受性が他の犬種よりも高いことが考えられていましたが、そこにはどんな遺伝子突然変異が関係しているのか、その突然変異がCYP2B11の産生にどのような影響を与えているのかは分かっていませんでした。今回の研究でコート教授らは、CYP2B11の遺伝子に犬種によって見つかる頻度に差がある変異を見つけ、その中でもサイトハウンドで特に多い変異の組み合わせも発見しました。また、その組み合わせによってはある麻酔薬を含むいくつかの薬剤の代謝が遅くなることも確認しました。
しかし、発見はそれだけではありませんでした。同じくDNAバンクのサンプルからサイトハウンド以外の45犬種にもリサーチを拡大した結果、ゴールデンレトリーバーやラブラドールレトリーバー、ボーダーコリーなどの人気犬種でも、低い確率ではあるもののこの遺伝子変異の組み合わせがあることが判ったのだそうです。
そして、ゴールデンレトリーバーでは50匹に1匹、ラブラドールレトリーバーでは300匹に1匹の割合でCYP2B11酵素の量が少ない可能性があると推測されるそうです。サイトハウンド種に比べるとずっと低い割合ではありますが、人気犬種だけに該当する絶対数がそれなりに多いことが考えられます。
この突然変異は、雑種の犬にも見られました。発現する率は3000匹に1匹とはるかに低い数字ではありますが、無視できるものではありません。
今後の研究課題
前述の通り、ワシントン州立大学獣医学部で研究を続けている獣医麻酔専門医でもあるコート教授が率いるチームは、サイトハウンドにより安全に麻酔を施す方法を開発しながらも、「他の犬種でも同じ方法をとるべきなのか?」との疑問を持っていたそうです。今回、サイトハウンド以外にも薬物の代謝を遅くする遺伝子の変異が見られたことから、どんな犬種においても、薬物代謝が遅い個体である可能性があることを考えて麻酔薬や他の薬を投与した方が良いのだと考えられます。
現在、同研究チームはグレイハウンドとゴールデンレトリーバーにおける薬剤代謝についてのさらなる研究や、綿棒で拭ってDNAを採取するだけで検査ができる、麻酔薬に対する個々の犬の感受性を判断する簡便なDNAテストの作成に向けた研究を続けているとのことです。確かにこのようなテストがあれば、飼い主としてはとても有り難いですね。
薬物代謝には色々な酵素がかかわっていますが、CYP2B11は麻酔薬であるチオペンタールやプロポフォール以外の薬物の代謝にもかかわっています。
同研究チームは、「この遺伝子変異によってCYP2B11の量が少ない犬には、どのような薬剤をどれだけの用量使用するべきか、獣医師に正確なアドバイスを提供できるようになることを目指して研究を続けている」と述べています。
まとめ
サイトハウンド種の犬は他の犬種に比べて麻酔からの回復に時間がかかったり、副作用が見られたりする、リスクが高いと言われ、薬物代謝にかかわる酵素に問題があることが考えられていましたが、その酵素の量を少なくする遺伝子の突然変異に基づくと発見されたこと、そしてその遺伝子変異の組み合わせはサイトハウンド以外の犬種でも存在することが判ったという研究結果をご紹介しました。
サイトハウンドの飼い主さんでなくても、麻酔をかけることに不安を感じる人は少なくありません。その結果、歯石除去など必要な処置を諦めてしまったり、麻酔を避けたせいで犬の体に余計な負担をかけてしまったりするということもあります。
しかし、今回紹介した研究などによって麻酔や他の薬に対するリスクが高くなる原因が明らかになりつつあります。ある種の麻酔薬の代謝が遅い犬なのかそうではないのかが事前に分かると、獣医師がより適切な麻酔薬を選ぶことができたり、起こりうる副作用が予測できたりすることにもなりますし、飼い主さんにとっても「分からないが故の不安」が大きく減ることになります。麻酔前のDNAテストや、できる限り安全な麻酔方法が1日も早く確立することを期待しています。
《紹介した論文》
Martinez, S.E., Andresen, M.C., Zhu, Z. et al. Pharmacogenomics of poor drug metabolism in Greyhounds: Cytochrome P450 (CYP) 2B11 genetic variation, breed distribution, and functional characterization. Sci Rep 10, 69 (2020).
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56660-z
《参考記事》
https://news.wsu.edu/2020/01/13/wsu-study-aims-prevent-adverse-drug-reactions-dogs/
持っている遺伝子の違いにより人によって異なる薬の効き方や副作用の出方までを考慮して薬や治療法を選択する医療をオーダーメイド医療(テーラーメイド医療、個別化医療)と言います。この研究は犬におけるオーダーメイド医療の実現に向けたものになります。犬種による薬の作用の違いについて既に遺伝子検査が利用可能となっているものに、コリーとその近縁種でのMDR1遺伝子の変異があります。
MDR1遺伝子の変異は1種類で、その変異のあるなしが薬剤感受性に影響するのですが、今回発見されたCYP2B11という酵素の発現にかかわる遺伝子変異は複数あり、遺伝子変異の組み合わせである「ハプロタイプ」の違いによって、CYP2B11を持つ量が変わってくることが分かりました。CYP2B11の量が少ないとある種の薬が体内で分解されず、いつまでも体内にとどまってその効果を発揮してしまうということになります。それが麻酔薬の場合には、なかなか麻酔から覚めない、麻酔が効きすぎてしまう、ということになるわけです。
今回見つかったCYP2B11遺伝子のハプロタイプは6種類あり、そのうちの3種類(H1、H2、H3)がサイトハウンドで見られました。CYP2B11遺伝子の発現量はH1が最も多く、H2はH1の約60%、H3はH1の30%未満と考えられました。そして、サイトハウンド以外の犬種ではH1が最も多く、サイトハウンドではH2が最も多いハプロタイプでしたが、H2とH3がどの犬種で認められたかについては以下の表の通りでした(雑種については、何%の個体で認められたか、です)。
この研究ではグレイハウンドについて、61頭のAKC(アメリカン・ケンネル・クラブ)登録のグレイハウンドと180頭のNGA(ナショナル・グレイハウンド協会)登録のグレイハウンドに分けても調べていますが、AKC登録のグレイハウンドでは59%もの犬でH3が見られ、NGA登録のグレイハウンドでは18%でだけ見られました。同じ犬種でも、ドッグショーで勝つことを主な目的として繁殖されてきたAKC登録の犬と、ドッグレースで勝つことを目的に繁殖されてきたNGA登録の犬で大きな違いが見られたことも興味深い点です。
この研究では、ハプロタイプの組み合わせが違う数頭の犬の肝細胞を用いて、CYP2B11に関するいくつかの実験も行われましたが、サンプル数が少なかったことや全ての実験は細胞を使っただけの実験であることから、どのようなハプロタイプの組み合わせの犬で実際にどの程度CYP2B11による薬の代謝が行われるのかは推測になってしまいますが、H3をペアで持つ犬はH1をペアで持つ犬の約30%だけのCYP2B11しか持っていないだろう、と研究者らは考えています。
CYP2B11遺伝子の変異がCYP2B11酵素の発現を減少させるメカニズムとしては、mRNAからたんぱく質を作る翻訳過程の効率低下が原因だと本研究の結果から考えられています。サイトハウンドの麻酔薬感受性が高いことから始まった研究ですが、この記事でも説明されているように、サイトハウンド以外の犬種でもCYP2B11量の少ない犬がいる可能性が示されたこともこの研究の大きな成果です。
本研究では19犬種がサイトハウンドとして分類されていますが、その中には一般的にはサイトハウンドと思われていない犬種(バセンジー、ローデシアン・リッジバック)も含みます。バセンジーやローデシアン・リッジバックをサイトハウンドとするかどうかの議論は以前からありますが、今回の分類は、犬ゲノムプロジェクトが進行し、遺伝学的に犬種どうしの関係性を調べた別の研究結果に基づいて行われたものです。ちなみに、今回調べられたバセンジーではH3ハプロタイプを持つ犬は見られませんでした。
本記事では日本でも人気のゴールデンレトリーバーやラブラドールレトリーバー、ボーダーコリーでもCYP2B11の量が少ない犬がいる可能性が説明されていますが、H3ハプロタイプが認められたサイトハウンド以外の犬種のリスト(H3が見られた確率が多い順に)は以下の通りになります。