京都府宇治市の野犬
まず、お住まいの地域によって報道量が異なると思いますので、京都府宇治市で目撃されている野犬のことを以下にまとめます。目撃されている野犬は、黒×茶の毛色をもつシェパードに似た風貌で、体長は約1.5メートル、体高は約80センチと推察されています。
- 7/14に民家裏でシカを襲っていると住民から通報
- 6/24にも子鹿を襲う野犬の目撃情報あり(宇治署が撮影)
- 目撃されている場所が、小学校の通学路である
これらの事から、野犬は攻撃性が強いとされ、子供たちへの危害が及ばないように心配されており、警察官や保護者らが通学路の見守りに当たったり、捕獲用の檻を仕掛けたりして付近の住人に強く注意を呼びかけています。「毎日怖い」「早く捕獲してほしい」という不安の声が近隣住民から多数あがっているのも、当然の気持ちでしょう。
また、宇治市では昨年11月にもシェパードに似た野犬が2頭捕獲されています。シェパードのブリーダーさんによる「京都はシェパードの遺棄が多い」という声も(真偽は定かではありませんが)小さく報道されているのが現状です。
野犬について
野犬と野良犬の違い
野良犬という言葉はよく使われますが、野犬(やけん)はあまり使われない言葉ですね。野犬とは飼い主がいない犬の総称です。つまり、野良犬と同義語なのですが、野犬と野良犬を意識して使い分けられている背景があります。
また、野良猫という言葉はよく耳にしますが、野猫(のねこ)という言葉は、野犬以上にあまり知られていないのではないでしょうか?野犬と野良犬、野猫と野良猫の違いは、「野生化しているかどうか」という点が基準とされています。
なぜ、野犬は危険視されるのか?
野猫は、人間社会に依存せず、自力で餌を獲り人里にはあまり近づかないとされます。一方で、野良猫は、サザエさんの有名な主題歌にある「お魚くわえたどら猫」そのもの。(※どら猫は野良猫と同意語です)人間社会に、どこかで依存して生きている存在とされます。
私たちが普段の生活の中でみかけるのは、野猫ではなく野良猫であるケースが圧倒的多数です。人間側が攻撃と捉えられるアクションを起こさない限り、野良猫が人間の身体に危害をくわえられることは、ほとんどないのではないでしょうか?
一方、野犬については、元はペットして飼われていたいわゆる「野良犬」が野生化したものです。野犬はその性質上、群れを作って生活をしたり、人や家畜を襲ったりすることがあると報告されています。
近年の日本では野生化した野犬の群れの存在を聞くことはないように思いがちですが、案外そうでもありません。1980年代のバブル期に避暑地にいる間だけ飼われたペットが放置され野犬化し、地元住民や観光客が襲われる事故が多発したこと(事態の収束に大掛かりな山狩りまで行われた)や、災害時の被災地でも野犬化したペットの存在が報告されています。
少々乱暴な表現にはなりますが、野犬化した野良犬は人間や家畜を殺傷する可能性があるのは事実であり、人間社会にとって危険な存在であるとされるのは仕方がない側面があるでしょう。
野犬の存在から考えるべきこと
野犬と野生動物の違い
先に紹介した京都府宇治市の件が、野犬ではなく「熊」の場合ならどう感じるでしょうか。例えば、地元の猟友会を中心とした方々が一刻も早く射殺することを、素直に願うのではないでしょうか?
熊も野犬も同じ動物なのに、"何かが違う"のは、なぜなのか?
この記事を読んでいる方の多くは愛犬家として、今現在もあるいは過去に、愛犬と暮らした経験がある方が多数でしょう。野犬の危険性は理解できる。が、現在の日本にいる野犬は、ほぼ100%、元はペットとして飼われていたか、人間の手によって産み出された犬たちであることがわかるだけに、野犬と野生動物の違いについて、忸怩たる思いや割り切れなさを感じるのも当然でしょう。また、その気持ちも大切ではないかと考えます。
犬の祖先がオオカミ(タイリクオオカミ)であるということは広く知られています。オオカミが動物学的に犬になった経緯については、突然変異ではないかという説が有力ではありますが、今なお、推測の域を出ません。
一方、人間と犬が現在のように密接な関係にあるのは、お互いに相性がよかったという点があげられるでしょう。狩猟、牽引、見張り等、人間社会の中で様々な役割を担ってきたのは、周知の事実です。
このように、犬と人間が人間が歩んできた歴史と比べ、熊をはじめとする多くの野生動物は独自の生活や歴史を歩んできました。お互いに適度に距離を置きそれぞれの社会を発展させながらも、食料として狩る、あるいは襲われる(食料にされる)といった関係ともいえるでしょう。結果「人間との軋轢が生じる」場合、駆除する理由として正当化されやすいのだと考えます。
野生動物との共生
日本で身近な野生動物のひとつ、ツキノワグマを取り上げます。毎年、山菜採りに山に入った人や狩猟関係者、また山から降りてきたツキノワグマに遭遇した人が襲われるという報道を耳にします。
それでは「ツキノワグマを絶滅させろ」という声があるかというと、それは否。しかし、ツキノワグマが射殺されるという報道が出ると「麻酔銃じゃだめだったのか?」という声があがり、エサがないから人里に降りるのだろうと山道にドングリをバラまく等、「かわいそう」という感情を物差しにした行動が後を絶ちません。
「かわいそう」という気持ちは、時に愛情や優しさにもつながるものですが、野生動物と共有できる感情でないばかりか、自身や自身の大切な存在に危害が及んだ場合にでも、ブレずに維持できる人は多くはないでしょう。
現在、ツキノワグマについては山に帰すためにはどうすればいいか?という視点で、山の環境を整えること、あやまって人里にきた場合に放獣する等、様々な活動がなされています。
ツキノワグマが絶滅危惧種に認定されていることも含め、人間のエゴと言ってしまえばそれまでですが、それぞれにテリトリーを分けて生きてきた関係を一方的に乱してしまったという過ちを犯した側が、その関係を修復する努力をするのも責務でしょう。
野犬を作ってはいけない!
先にも書いたように、現在の日本にいる野犬は100%元は飼い犬あるいは飼い犬として産まれた存在で、野生動物ではありません。野生動物との共生を再構築している裏側で、野犬という新たな野生動物を一方的に送り込もうとしていることこそが、愚かなことと捉えるべきでしょう。
現在、日本にいる犬の多くはペットして飼われている存在です。人為的に犬種の多様化・愛玩動物としての扱いが進んだのは1700年代頃からとされており、ヨーロッパを中心に犬種や毛色、小型化が進みました。
トイプードル、チワワ、ミニチュア・ダックスフント、ポメラニアン等、日本でも人気の高い愛玩犬の多くは、この流れを汲むものです。犬という種族に対しこれだけ関わってきた人間が、「人間との軋轢が生じる」犬を今更作ってはならないのです。
京都府宇治市の野犬についてのニュースを追いかける中、様々な意見を拾いましたが、野犬に対する憤りではなく、元飼い主や飼い主の元に犬を提供した存在(ブリーダー、ショップ等)への憤りばかりでした。
どれだけ、犬が人間と相性が良いといっても、犬は犬、それぞれに性質や性格があります。人間側がリーダーとしてまた家族として、コントロールしコミュニケーションをとる能力や努力があって、初めてよい関係になれます。飼い主の無責任な遺棄は言語道断ですが、飼い主の力量を加味しない無責任な販売・譲渡、そして繁殖についても厳しく問わなければなりません。
しかし、何度となく法改正がなされても何か変わることはあったのでしょうか?モラルに訴えても、罰則を強めても、自浄作用が全く働いていない現状に忸怩たる思いはあれど、同じ様に感じる人が多くいるのならば、まだまだ捨てたものではない。「野犬を作らない」ことは、実現不可能な夢ではないと信じたい思いです。
野犬に関するまとめ
自分の住む街に野犬がいなければ野犬の存在は遠いものであり、また、自分の愛する犬を無責任な理由で野犬化させるなんて考えられない飼い主さんが圧倒的多数でしょう。
私自身も同じ立場です。不謹慎ではありますが、自分の愛犬が何かのトラブルで野良犬となってしまった場合、野犬として生きていくだけのたくましさはないだろうと想像したぐらいです。
ペットとして犬を飼うという行為。その生活を送るまでは「人間のエゴ」と感じていた側面が強いのですが、今、愛犬が隣にいて喜怒哀楽を発揮し日々生きている様子は、親バカかもしれませんが、「幸せ」という言葉しか当てはまりません。
社会を動かすような大きな力も才覚もない、たった1人のちっぽけな人間ですが、目の前の愛犬を精一杯愛し、共に生きていきたいと思います。
ユーザーのコメント
女性 ミルク
野生の犬はいない、と記事にありましたが、本当にそうですね。人間のために生まれて来た犬たちなのに、と思います。京都のニュースはちょっと前にネットニュースで目にしましたが、確かシェパードだったように思います。小さなお子さんなどがいるご家庭は不安でしょうし、大人でも敵わないほどの力がありますから危険です。
人も犬も傷つかない方法で事態が穏やかに収束すればいいなぁ、とただただ願います。
女性 あんみつ