ある日、突然逝った葵
生まれてから、ずっと犬と一緒に育って来た。
何匹も見送り、その度に身体が引き裂かれるような悲しみと向き合って来た。
大人になった今より、子供の頃の方が上手に愛犬たちを見送って来れたように思う。
大人になるにつれ、人生の酸いも甘いも経験し、上手く「命」を見送れなくなった。
なぜだかわからないが、きっと「命」の尊さをより深く知ったせいかもしれない。
2年前に看取ったヨークシャテリアの葵。
7歳の頃に心疾患が見つかり、毎月の病院通いが欠かせなかった。
それでも毎日の投薬さえ守っていれば日常生活は送れていた。
オペもたくさんした。
乳歯遺残症のオペ、2回の乳腺腫瘍のオペ、避妊手術。
そんなことはあるわけがないのに、このままずっと一緒にいれるような気がしていた。
そう錯覚させてくれる程度には元気だった。
14歳になり歯周病が酷くなり、抜歯のオペをすすめられた。
年齢も年齢なので、全身麻酔は怖かったが、それすらも乗り切れるのではないかと思えた。
オペの日、爆弾低気圧で首都圏は大雪となった。
私の住んでいる街も例外ではなかった。
その日の朝に動物病院に葵を預けていた。
オペに耐え得る身体かどうかの検査をするためだ。
検査結果は良好だった。
オペは午後だと言うので、一度家に帰った。
オペに立ち会うために、再び家を出た。
片道40分の道のりを車で向かう途中で、雪が降って来た。
瞬く間に積もる雪。
あちこちで車が立ち往生する中で、泣く泣くオペの立ち会いは諦めることとなった。
一瞬、嫌な予感が胸を過った。
しかしオペは上手く行った。
「明日迎えに来て下さい」と電話の向こうでドクターは言った。
翌日は10センチ近い降雪があったので、キャリーバックを持って電車で迎えに行くことにした。
タクシーが捕まらなかったので、最寄りの駅まで雪に足を取られながらひたすら歩いた。
早く葵に会いたかった。
漸く着いた病院で対面した葵は確かに元気そうだった。
雪の中を二人で歩いて、電車に乗って、岐路に着いた。
家では同居犬の尊(たける)と愛猫が葵を待っていた。
特に尊は葵が帰って来て嬉しそうだった。
その日から葵のために、柔らかい食事を用意した。
多少手間が掛かったが、葵のために手を尽くせることが嬉しかった。
嫌な予感は予感でしかなかったと安堵した。
葵もまたふやかしたドライフードと缶詰をおいしそうに食べてくれた。
夜も一緒に寝た。
病院の時と違って、リラックスした表情を浮かべていた。
「やっぱり我が家が一番」と言っているように思えた。
翌日、また葵のために柔らかい食事を用意したが、葵は口をつけなかった。
その時は抜歯の後が痛むのかもしれないと思った。
同居猫の世話のために葵の傍を離れた。
ほんの数分のことだ。
戻って来ると、葵は落ち着きなく、部屋中を歩き回り、ベットに入ったり、出たりしていた。
「どうしたの?」と声を掛けてから、私は床に腰を下ろした。
すると葵は私の膝に乗って、顔を伏せた。
そして動かなくなった。
いつもと違う行動に心臓が跳ねた。
葵は自分から膝に乗って来るような子ではない。
何が起きているかわからなかった。
恐る恐る揺すってみた。
その時にはもう息をしていなかったのだと思う。
頭が真っ白になった。
慌てて人工呼吸をしてみた。
それでも葵は動かなかった。
葵が死ぬとは思わなかった。
だから暫く私は亡骸になった葵を相手にいろんなことをしてみた。
例えば心臓マッサージ。
正しいやり方などわからなかったが必死だった。
ホームドクターは遠距離なので、家から5分の馴染みのない動物病院に葵を連れて行った。
そこのドクターは葵に聴診器をあて「心肺停止しています」と言った。
「さっきまで元気だったんです」と私は言った。
でも葵は死んだのだ。
あまりにも突然のことだったので、自分の中で感情を上手く処理出来なかった。
ただもう二度と生きている葵を抱くことは出来ないのだと思った。
親しい友達や親戚にも葵が死んだことは言えなかった。
半年もの間。
葵の死をきっかけに、私はペットロスカウンセラーの勉強を始めた。
始めてみてわかったことは、誰よりも自分がペットロスだったと言うこと。
眠れなかったり、涙が止まらなかったり、いつでも何処でも突然葵を思い出し情緒不安定になったり……。
あとは葵の死を隠したことが、そもそも間違いだったと言うことにも気づいた。
ペットロスとは?
まず初めにペットロスは病気ではない。
ペットの死に伴う悲嘆反応で、とても自然な反応だ。
悲嘆とは死による喪失感から生じる深い心の苦しみや悲しみであり、誰もが独りで向き合い、耐え忍ばなくてはならないのだ。
そして悲嘆は強い感情ないし、情緒的な苦しみであると考えられている。
しばしば精神状態の重篤化が見られ、鬱病や自殺にまで追い込まれる方もいらっしゃるが、あくまでもペットロスが病名でないことは皆さんに覚えておいて頂きたい。
私は葵が死んだことを周囲の人に打ち明けるのに半年掛かった。
言えばみんな真剣に耳を傾けてくれることはわかっていたのに、だ。
他者に打ち明けるまでの間、葵の死を認めたくないという気持ちと、誰かに話して楽になりたいと言う気持ちが常に葛藤していた。
結果、もっと早く聞いてもらえば良かったと思った。
他者に自分の気持ちを共有してもらうことで、こんなに救われるとは思ってもみなかった。
葵に手紙も書いた。
今自分がどう思っているか、葵との思い出、葵がいなくなって寂しいこと。
葵に届ける術はなかったが、自分の気持ちを整理するには充分だった。
それとうちにはまだ同居犬の尊と愛猫がいた。
葵に出来なかったことを二匹にしてあげようと誓った。
苦しんで苦しんで逝った尊
葵が死んでから2年。
尊も愛猫も元気だった。
特に尊は葵と違って大きな病気になったことはなかった。
オペも去勢手術くらいで、きっと葵よりは長生きするのだと、何の根拠もなく思っていた。
そんな折、家族が病気で入院することになった。
必然的に家を留守にする時間が増え、尊の寂しさを紛らわせるために、高脂質のおやつを与えるようになった。
長い入院だった。
漸く退院のメドが立った頃、尊の異変に気づいた。
食いしん坊の尊がご飯を食べない。
その上、嘔吐した。
「今日一日様子を見て、明日病院に行こう」。
今思えばそれが間違いだったのだ。
急性膵炎だった。
胆管にも異常があり、緊急オペをすることになった。
数時間前まで元気だった尊が見る見るうちに弱っていく。
悪い夢を見ているようだった。
ご飯が食べられない。
立てない。
黄疸が出ている。
下痢が止まらない。
吐き気が止まらない……。
ほんの少しの間に尊は何も出来ない子になってしまった。
私は葵に祈り続けた。
「まだ連れて行かない欲しい」と。
そのせいか尊は苦しんで、苦しんで、苦しながらも生き続けてくれた。
2度の輸血もした。
数日の間に再びオペもした。
何とかオペは乗り越えたが、容態は一向に良くならなかった。
激しい痛みを取り除くため、モルヒネのような強い薬を使っているせいか、いつも意識が朦朧としていた。
それなのに毎日私が面会に行くと、重い瞼を上げ、のっそりと起き上がろうとし、ぎこちない動きで指をなめてくれた。
食いしん坊で甘えん坊の尊が、実はもの凄く頑張り屋さんなことに、私はその時、初めて気づいた。
気づけたことが嬉しくて、「もう好きなようにしていいよ」と私は言った。
翌日、4月なのに首都圏では雪が降った。
また雪だ。
葵が逝ってしまった時も雪だった。
何となく「逝くなら今日だろうな」と思った。
その時、電話が鳴った。
「尊くんが急変して、蘇生処置に入りました」。
病院に向かう車の中で涙が止まらなかった。
ただ尊は今日逝くんだなと思った。
体調を崩してから二週間弱だった。
二週間前までは元気に散歩していたのだ。
それなのに……。
信じられなかった。
信じたくなかった。
でもそれが現実だった。
病院に着くと3人の獣医師が尊のために尽力してくれていた。
「50分心臓マッサージをしていますが戻って来ない」と言われ「もういいです」と自然と言葉が出た。
なぜなら病院に向かう車の中で確かに「今、尊は逝ってしまった」と感じた瞬間があったから。
葵より長生きすると信じて疑わなかった尊は13歳で逝ってしまった。
ペットロス再び
葵を失った傷が漸く癒えて来たばかりなのに、今度は尊を失った。
とうとう入院中の家族に会わせることも叶わなかった。
尊がいなくなって、私は生まれて初めて犬のいない生活を送っている。
散歩のために朝5時に起きる習慣は今でも続けているが。
葵の時とは違って、尊を可愛がってくれた親戚、友人にはすぐに尊の死を報告した。
みんな真剣に耳を傾け、尊の死を悼んでくれた。
「かわいい子だった。
忘れないよ」とも言って貰えた。
すると驚く程気が楽になった。
一人で抱え込まず、他者に話を聞いて貰うことの大切さを身を持って実感した。
周囲に私の悲しみをわかってくれる人がたくさんいて良かった。
もしも尊の死を軽んじるような人が一人でもいたら、私は立ち直れなかったかもしれないと今でも思う。
尊の死を受けて、私はペット介護士の資格の勉強を始めた。
ペットロスの乗り越え方
愛犬を失った方へ。
まずは泣きたいだけ泣いて、きちんとお見送りましょう。
豪華な葬儀をしろ、と言うのではなく、けじめをつけましょう。
そして悲しみを分かち合える人と、愛犬について話しましょう。
どんな些細な思い出でもいいので、「あの時こんなことがあった」とか「あのこはこんな子だった」とか。
それだけでも随分救われます。
もしも周囲に誰も話を聞いてくれる人がいない時は、ネットの掲示板を利用するのも手かもしれません。
同じように愛犬を失った人が集っているサイトで、同じような悲しみを共有出来るでしょう。
一人で静かに立ち向かいたい人は、愛犬にお手紙を書いてみてはいかがでしょう。
自分がどれだけ愛犬を愛していたかを手紙にしたため伝えてあげて下さい。
それでもペットロスから脱却出来ない方は、専門家に相談するのが良いでしょう。
今はペットロスを専門にしているカウンセラーも存在します。
それでもまだ、と言う方は里親サイトなどで、新しいペットを迎えてみてはいかがですか?
勿論、死んだ子の代わりになる子は何処にもいません。
当然です。
それを承知の上で別の命を救うことも、ペットロス脱却の一つの手だと思います。
逝ってしまったあの子にしてあげられなかったことを、別の命にしてあげて下さい。
それが無理なら、時が解決してくれるのを待つのも一つの方法だと思います。
最後に
葵が逝って2年。
尊が逝って3ヶ月。
正直言って今でも悲しいし、寂しいです。
「あなたのところはまだ猫ちゃんがいるからいいね」と人に言われますが、猫がいたって、例えばあと10匹犬がいたって、葵と尊がいなくなったことにはかわりはないのです。
それでも2匹がいなくなったことを、私は受け入れなくてはなりません。
あなたも、まずは愛犬の死を受け入れて下さい。
とても辛いことですが、それが一番大事なことであり、ペットロス克服への第一歩だと思います。
ユーザーのコメント
10代 女性 ゆっこ
天国でも元気に生活して欲しいですね!
40代 女性 匿名
ありがとうございました。
50代以上 男性 サトシ 63歳
去年61で家内に先立たれまだ神様は私に仕打ちを与えになるのだろうか…と思いつつこの書き込みにたどり着きました。
今はずっとラブ君を最後まで見続けて素直にお別れを受け止めようと思っています。
今までの感謝を残された日にちを共に強い心で接して行こうと思います。
読ませて頂いて少し頑張らなくてわと感じましたありがとうございました 。
女性 まろんママ
13才のミニチュアダックスの女の子。
朝、ご飯食べ散歩して、しばらく経ってから息が荒くなり、お腹が張っていることに気づき、慌ててかかりつけの病院へ電話。休診日ですぐ診てもらうことが出来ないので、初めての病院へ電話、手術中ということで救急動物病院を紹介され連れて行く。
胃拡張をおこしているということで、穴を開けガスと内容物を抜き様子見のために入院。明日の11時頃に電話して迎えに行く予定でした。
6時過ぎ病院から電話。
夕方まで落ち着いていたけれど、5時10分頃に仰け反り倒れ心配停止に。
蘇生処置したけど、戻らなかったとの事。
病院に預けてから胃拡張でネットで調べたところ、ガスが出やすいイモ類マメ類は注意、食事後の散歩は良くないとあり、これからは気をつけなきゃと思っていた。
まさか、死ぬなんて…
後悔は沢山!飼い主の私のせい…
まだ、受け入れられない。
私の癒しだった。優先順位1位だった。
明日は来るけど、まろんとの明日は来ない。辛いですね。
40代 女性 ココママ
亡くなられたワンちゃん達のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
今は、同じ気持ちの方々のメッセージを読んだり本を読んだりして・・
気持ちを共有させていただいております。
何年過ぎても忘れることはできないのでしょうけれど・・・
少しずつ悲しみや寂しさが和らいでくれるのかなぁ・・・と思っております。
8日前、我が家の娘(ミニチュワダックス)14歳が亡くなりました。
生後2カ月でパルボウイルスに感染したり、副腎の病気や乳癌、卵巣脳腫、腎不全・・・
本当に病と闘ってきた子でした。何度ももうダメかもしれません・・・と宣告もされてきました。
昨年12月に腎不全の数値が計れないくらいになってしまい、突然死覚悟もしてください・・と獣医師の先生から宣告され、その間も肺炎になったり・・それでも病を乗り越えて頑張ってくれました。
痛い点滴の毎日、病院に行って点滴するのも身体の負担になるので自宅での点滴の日々・・・
そんな中でも頑張って私たちの事を癒してくれました。笑顔にさせてくれることも沢山ありました。
ただ呼吸が苦しそうな姿を見ていると、もう頑張らなくてもいいんだよ・・・って何度も言ったりもしました。でも反して、ずうっと生きててほしい・・病気が治ってほしい・・と思ってもいました。
苦しみから解き離れ安らかな顔で旅立った我が娘、本当にお疲れ様、ありがとう。。。
心配かけたくないけれど・・・
泣きたいときは泣かせてね...その分笑うようにもするからね。
いつの日か再会できる日を夢見て。。。
50代以上 男性 わんわん
数日前、自宅のソファに上がろうとしてこけて、「キャン」と鳴いたことがあり、脚を挫いたのかと思っていましたが、それは誤りで、腫瘍の転移が始まっていました。
それから、動物病院への朝夕の日参が始まりました。カテーテルをして、導尿するのです。気張って排尿する姿は痛々しかったです。その動物病院の主治医の先生から、「移行性上皮癌」と診断を受け、予後は数週間と言われ、愕然としたのを覚えています。
手だては外科手術か放射線治療。外科手術をして、患部を摘出したとしても再発のリスクは残ることをうかがい、後者を選択しました。6月下旬に2回、淵野辺にある麻布大学附属動物病院で治療を受けました。
治療の甲斐あって、自力排尿が少しできるようになりましたが、根治療法でないのと、犬の残存体力を考えて2回が限度であったため、あとは日に日に衰えていく彼を介護する日々が続きました。寝たきり状態となり、褥瘡を防ぐため、一定時間で体位変換をさせました。
かかりつけ動物病院に毎日通院するたびの体重測定で、確実に減少する体重。癌性悪液質で癌が栄養を奪って増殖するのです。X線検査では、肺にも癌の転移が始まり、酸素室の提案がなされました。
食餌は自力では無理で、高栄養の流動食を注射器で飲ませます。
元気な頃の体重は6キロ超だった愛犬は、4キロ台まで落ち込み、その日はちかづいていました。
酸素室をレンタルして、やっと届いて彼を室内に入れて様子を見ていたその時、容態が急変、痙攣発作が起こり、私は彼を抱きとめ、家内と彼の名前を叫び、励まし続けました。日付が変わって30分後、約2週間途絶えていた排便をして、そのまま息を引き取りました。
それから2週間後、病気療養中だった父も在宅介護を始めて4日後に旅立ちました。まるで、彼の後を追うかのように。
思えば愛犬は、父に先立ち、虹の橋のたもとで父を迎える役を果たそうとしていたのではないか。そう思えてなりません。
女性 ちゃま
うちの子は生後3ヵ月でお迎えし2ヵ月だけ一緒に過ごし、生まれて5ヵ月で虹の橋に行ってしまいました。今でもうちに来て幸せだった?と問いかけています。
旅立ってまだ1ヵ月、いない毎日がたまらなく淋しく、涙が渇れることはありません。でもまた会えるのを信じて頑張っていかなければと思いました。
女性 匿名
女性 匿名
急に涙が出たり、帰宅後は姿を探しながら胸元のペンダントにいる愛犬に話しかけながら
常に一緒にいます。
ふとした事でこちらを見つけ、みなさんのコメントを拝見しながら自分と同じ気持ちの
方がたくさんいらっしゃると知りました。
みなさんも色んな思いを持ち、悲しみや苦しみ、寂しさと戦っているんだと。
10歳過ぎた頃に、それまで外いた愛犬が急に腰が立たなくなった時期がほんの少しあったこともあって、それからは室内で一緒に過ごしました。
たくさんたくさん寂しい思いをさせてしまいましたが、土日だけは愛犬優先で、いつも一緒にいるようにしました。
自分の寿命を愛犬に分け与えてと祈りながら。
今はまだ悲しみと戦っていますが、いつかありがとうと言えるように頑張らないといけませんね。
私が泣いてると、愛犬も虹の橋で楽しく遊んでいられられないかもしれないから。
私がそっちに逝くまで他のお友達と楽しく過ごしていてね。
そして、いつか一緒にまた遊ぼうね。
女性 くみまま
9月中旬頃、歩く時に後ろ足がおかしくて病院に連れて行ったのが始まりでした。
ぷりんは2才の時にヘルニアの手術をして9才の時乳腺腫瘍と子宮蓄膿症の手術をしました。今回、後ろ足がおかしくなったのもまたヘルニアかな?と思って病院にいったんです。薬をもらって飲んでもよくならず1週間後には歩くのもふらふら頭もふらふら揺れるようになり紹介してもらった病院でMRIを撮りました。脳腫瘍でした。
それからぷりんが寝たきりになるまでは時間がかかりませんでした。日に日に弱っていく姿を見てるのは辛かったです。
最後の方は後弓反張という発作が何回もあってかわいそうでたまりませんでした。
最後の時、看取る事ができませんでした。
外出から帰ってきたらもう息をしていなくて、やり方もよくわからないけど人工呼吸したりしましたがダメでした。
まだ、ぷりんがいなくなってしまったなんて信じられません。
どこに行くにも連れて行ったのでどこへいっても思い出して涙が出てきます。
悲しいしさみしいけどたくさんの楽しい思い出をくれたぷりんに感謝してます。
ずっと大好きだよ、今までありがとう
50代以上 女性 かけるママ
愛しくて、かわいくて今は時間が過ぎるのを待つだけです。
40代 女性 くり
先月亡くなった子は15歳でした。どうしてもこの子の死が受け止められなく、ずっと後悔していて、その子のことまで、中々考えてあげれなく、さみしい思いをさせていたのかと思います。
いい訳になってしまいますが、自分の事ばかりでした。今思えば、もっともっと抱きしめてあげればなど、気にかけてあげてたらなど、後悔がいっぱいです。先月亡くなった子に後悔したから、次の子は後悔しないようにと考えていたのだけど、気持ちの切り替えが出来なくて、結果さみしい思いをさせて逝かせてしまいダメな飼い主です。後悔とさみしさとで苦しいです。
女性 やんた
2年前に鼻の癌が見付かってから顔が腫瘍でどんどん腫れていき、見るのはツラかったです。
でも1番ツラいのはバルだから、と時々実家に会いに行ってひたすらになでてました。
それしか、バルを甘えさせてあげるぐらいしか私にできることはなかったです。
痩せても片眼が腫瘍で見えなくなっても、私が行くと必ずしっぽを振って体をすりよせて出迎えてくれました。
顔がどんなに腫れても可愛くて愛しい子でした。
とても悲しいし寂しいですが、最後まで大好きな散歩に行けて、大好きな父の家で最後を迎えられてそれだけは救いでした。
虹の橋はあたたかい所でしょうか。
私が死んだらバルを探しに行ってみようと思います。
女性 匿名
この家に来てくれて、ありがとう
これからもずっとだいすきだよ
女性 マル
家の中に思い出がありすぎて、マルの好物を前にすると、たまらないです。最後に粗相したラグもオシッコの匂いがなくなるのが嫌で洗えません。
抱っこしたいです。頬ずりしたいです。頭を撫でてウットリする顔も見たいです。チョロっと出したベロにも触りたい。可愛いイビキも聞きたい。怖がりですぐ私の股の間に逃げてきたマルを、大丈夫!守ってあげるから!って、答えていたけど守れてたかな?幸せだったかな?たくさん後悔があって返ってこない返事をいつかは聞けるかな?また会えるかな?私が逝く時は迎えにきてくれるかな?まだ家の中にいるかな?49日まではメソメソ泣いてもいいかな?
亡くなってから夢に出てきたのはまだ2回。今夜あたり出てきて欲しいな。お願い、抱っこが大好きなマルちゃん。
女性 かおりん女性を
まだ死を受け入れることができない自分がいます。いきなりの出来事でした
毎日泣いています。
ここの人の書き込みを読み私だけではないと少し気持ちが楽になりました。
ありがとうございました
30代 女性 もこねぇちゃん
私が大学1年生の夏に我が家の2代目ワンコとして愛護センターからやってきました。やんちゃで、お利口で、優しくて。。
私が結婚し、子どもができてからは大好きな母を独占できず、淋しかったかな。。
腫瘍ができ、排泄ができなくなり、ご飯も食べなくなって。歩けなくなった翌日に逝ってしまいました。
前日も実家にいたのに撫でることもバイバイを言ってあげることもなく帰った私を許してね。ごめんね。
次の日も当たり前にモコがいると思ったんだ。。
愛犬との別れは2回目ですが、本当に苦しい。悲しい。。淋しいですね。
でもきっと、今ごろ痛いところもなく、大好きな物を沢山食べて走り回ってるかな。
悲しいけど、モコが辛くなくなったなら良かったのかな。
モコ、また会う日まで待っててね!
ありがとう。
50代以上 男性 匿名
10代 男性 マサ
名前はロン13年生きていました。
しかしある日僕がいつもどうりエサをあげて学校に行きました。
そしてかえって来ると祖父が暗い顔で「残念な知らせだ」ロンが死んだ、頭の中は真っ白になり信じられませんでした。死因は祖母が車で引いたそうです。
しかしその日家族でロンの話をしていると偶然なことに昨日ロンの話をしたり妹が学校で犬が死んだ勉強をしたり僕も犬のことを話していた事を思い出しました。
これも何かの縁だと思いました。
安らかに眠って欲しいです。
50代以上 女性 vivi
本当に突然に・・・15歳1か月。病気知らずのちゃっぴぃでした。
ご飯もよく食べ、元気だったのに4日前から食欲がなくなりお水も飲まなくなり、お散歩もヨタヨタ。
ただ震えていました。2月28日から日付けが変わる頃に亡くなったと思います。2時頃目が覚めてちゃっぴぃと声をかけた時には冷たくなっていました。ごめんね。ちゃっぴぃ・・・さみしかったよね。苦しかったよね。ごめんね。
3歳下のビビ(シーズー犬)は今でも、ちゃっぴぃがいると思い、家じゅう、探しています。
散歩の時もキョロキョロとちゃっぴぃを探しています。とても辛いです。
動画を見ては涙が溢れてきます。ありがとう!ちゃっぴぃ!
50代以上 女性 まる
3年も弁膜症と心臓に出来る癌の為に2週間に1回心膜から水を抜きながら過ごしていました。
水が溜まると咳が出て苦しそうでしたが、抜くと元気に過ごせました。
2月中旬から ご飯もおやつも食べなくなり下痢と嘔吐で苦しかったね。
最後は1時間に1回 下痢のため外へ立てなくなって、動けなくなっても手足をつっぱって教えてくれたね。
壮絶な苦しみが3日、もうお母さんがこれ以上苦しむあなたを見れなくて、虹の橋に逝けるように背中を押す事にしました。
本当は自分で逝ってもらいたかったけど、怖がりだから仕方ないね。
そちらは どうですか?
お母さんはあなたがいないと こんなに寂しいとは思わなかったよ。
辛いです。
30代 女性 マリマリ
祖母の家で飼っていた12歳と10ヶ月のマルチーズの女の子が、今日の深夜早亡くなりました。元々心臓の病気があったようでしたが、最近なって薬を飲み始めたばかりだったのに…。本当に突然でした。
飼うきっかけが私にあったので、家は離れていましたが、とても可愛がっていました。
途中7年間、私は地元を離れており、その間彼女の体調の変化を見ることができず、「あの時きちんと見ていれば」と、とてもとても後悔しています。
家に帰ってきてからも涙が止まらず、暗闇で倒れて寂しかっただろうとか、もしかしたらその場にいたら助かったかもとか、彼女のことを思うと可哀想で悲しくてたまらず涙がとめどなく流れます。
30代 女性 natsu
かなり、おじいちゃんで会う度に痩せていってたけど私が実家に帰れば喜んでくれたし食べてるものもほしいと近付いてきてたので、なんだかんだまだまだ長生きしてくれるかな。と思ってたのでほんとにショックで何もしたくありません。急に涙が出てきます。
なつ、ウチに来てくれてありがとう!
次はいつ会えるかな?
なつがいない実家に帰るのは寂しいです。
50代以上 女性 マミー
ルニアではないかと診断されました。薬で様態が変わらないようだったら再検査して手術をした方がいいと言われました。それから4日後にマミーは亡くなってしまいました。
マミーのいない人生は考えられないくらい、私にとっては大切な存在でした。ずっと一緒に生きて、共に歳をとっていこうとマミーに話しかけていました。マミーの異変に何故もっと早く気づいてやれなかったのか、マミーに何が起こったのか死因が特定出来ず、獣医の二転三転する診断に、最期にはこの犬の寿命でしたと言われ、今でも理解できません。マミーが辛かったのだと思うと飼い主として後悔すりばかりです。
大好きなマミーが突然いなくなってしまい、苦しいくらい辛いです。虹の橋にマミーはいるのだと信じて、私を待っていて欲しいと願っています。
マミーを失った哀しみが癒える日はいつになるかわかりません。マミーにはたくさんの思い出をありがとうと言いたいです。私は忘れないからね。虹の橋で待っててね。(写真は亡くなる先日のマミーです)
女性 なつき
私が生まれた時からずっと一緒で片時も離れたことはありませんでした。
でも約一年前息を引き取りました。
朝起きたらシュリは死んでいました。
もうとてつもない喪失感に襲われて涙が溢れて止まりませんでした。一昨日までは元気に尻尾を振っていたのに何回名前を呼んでも反応してくれなくてただただ体が冷たくなっていって。命が無くなるっていうのはこういう事なんだなと実感しました。
学校から帰っても玄関でちょこんと座ってお出迎えしてくれるシュリは居なくて、無理矢理明るくしていても心の中にはぽっかり大きな穴が空いてしまった気分でした。私はシュリに何もしてあげられなかったと今でも思います。でもこの投稿を見てそれは違うのかなと思う事が出来ました。
もうシュリはこの世には居ないけどシュリの分まで楽しんで生きようと思います。
30代 男性 匿名
20代 女性 匿名
らんちゃんはわたしが小学校のときからずっと一緒に育ってきました。
元々、おばあちゃんと暮らしていて、一軒家の三階建てで、おばあちゃんがらんちゃんを飼うことになったのです。
それからずーとずっと一緒に暮らしてきて、楽しい時は一緒に喜んでくれてはしゃいで、わたしが悲しい時はずっとそばに居てくれて、顔を舐めたり、寄り添ってくれる優しい子でした。
10年程たち、新しいトイプードルのジョニーが家族になりました。
らんちゃんはヤキモチを妬いて、良くないと思ったので、わたしたち家族のところだけでジョニーを飼うことになりました。
わたしたち家族は、家にいる時はジョニーが一番になって行きました。
でもわたしはらんちゃん大好きで、一階のおばあちゃんのところにしょっちゅう行って、一緒の時間を過ごしてきました。
らんちゃんは少し前に病気が判明し、4月後半ごろから急に悪化しました。
病院で点滴などしてもらったりしたけれど
ごはんをまったく受け付けず、、お水しか飲まない。でも、さすがにおなか空いたのかわたしが手で口元にごはんを持っていったら食べたんです。
まだ、生きる力がある!食べたいんだ!
と思い、手であげました。
でもそのあとすぐ、全部戻しちゃったのです。ごめんね…苦しい思いさせて…
わたしは自分を責めました。
それからはお水を飲んでも戻してしまい…
歩けない、見えない、聞こえない、食べれない、、、こんな数日を送っていました。
そしてついに、、昨日の朝方に亡くなりました。
その日の夜、病院に点滴にいき、戻ってきて昼から夜ずっと泣いてたみたいです。
苦しかったのかな
痛かったのかな
もしかして、死んじゃうってわかってたのかな
いろいろ考えると申し訳ない気持ちでいっぱいです
ジョニーが来てからは、家ではジョニーがメインになり、らんちゃんは、もっとそばに居てあげればよかった
もっといろんなところに連れて行ってあげたかった。
昨日、ランちゃんが亡くなったのに今日は仕事に行かなければなりませんでした。
昨日もずーと泣いて、今朝も今も仕事の合間もずーっと涙が止まりません
おばあちゃんとらんちゃんのことを話していたら2人とも涙が止まらず…
おばあちゃんは、ずっと面倒みてくれてたのでわたしよりだいぶ辛いと思います。
寂しいと思います。これからなにを楽しみに生きていけばいいのか、寂しくなるなぁ、ひとりになっちゃったなぁとつぶやいてました。
それを聞いたら余計に辛くて、、、
しばく立ち直れそうにありません。
おばあちゃんのそばに、心の傷が少しでも癒えるようにできるだけそばにいてあげたいと思っています。
らんちゃん、11日にまた会えるね。
らんちゃん今までよくがんばったね。
こんな長い時間一緒にいてくれてありがとう。幸せだったよ。らんちゃんも幸せだったかな、ほんとうにありがとう。
天国で待っててね。
20代 女性 大好きなポチ。
亡くなってから1カ月経ってもなお、突然涙が止まらなくなる時があり逢いたくて堪らないです。それでも、直後のペットロスよりだいぶ前向きになれるようになってきました。
皆さんのコメントを全て読ませて頂き、深い悲しみを思いまた涙が止まりませんでした。
ポチは、私が小学生の時に我が家の家族になり、一緒に育ってきた兄弟の様な存在でした。
食べるのも、お散歩するのも大好きで、大きな病気もする事無く、とても元気な子でした。
ですが亡くなる10日前、突然自力で立てなくなり、寝たきりになりました。
家族みんなで、床ずれが出来ないように3,4時間おきに寝返りを打たせ、夜中でも仕事の途中でも、ポチが少しでも楽に過ごせるように尽くす日々でした。
寝たきりになるまでは、外で飼っていて、抱っこされるのも嫌がってなかなか触らせてくれなかったのですが、家の中で介護するようになってからは、気分転換に抱っこして毎日お散歩に行き、圧迫排尿をし、体のマッサージをして気持ちよさそうに眠る姿を見せてくれて、沢山触れる機会をポチは与えてくれました。
日に日に弱っていく姿は、見ていてとても辛く泣いてばかりの毎日でしたが、最期まで尽くせたこと、今では後悔なく思っています。
昼間は家族全員仕事で家を空けるので、仕事中も気が気ではありませんでした。
最期の瞬間に側に居れなかったら、沢山悔むと思ったからです。
しかしポチは、しっかり皆がお休みの日を選んでくれて、私が起きてくるのを待っていてくれました。
亡くなる前日はお水も流動食も口にはしてくれず、ずっと付き添っていたのですが、私がフラフラしてきてしまい「3時間だけ寝かせてね」と声を掛けて布団に入りました。
ちょうど3時間後起きていき、抱きかかえると、そこから10分程でポチはお空に旅立ちました。
大きな呼吸を何度かして、本当に静かな最期でした。
抱きかかえた時「ごめんね、ごめんね」と私が泣きじゃくっていると、寝たきりになってから一度も振ることがなかった首を大きく振って「大丈夫だよ、謝ることないよ」と言ってくれているようでした。
「よく頑張ったね、ありがとうね」と伝えると、呼吸が小さくなり全身の力が抜けるのがわかりました。
大好きなポチの最期、腕の中で看取ることが出来て、物凄く苦しいけど幸せでした。
深い深い悲しみに陥りましたが、いろんな人の話を聞いたり、読んだりしているうちに、最期を私の腕の中で過ごすことをポチ自身が選んでくれたんだと思えるようになりました。
言葉は交わせないけれど、きっと心は通じていたんだと信じています。
ペットを飼い、愛すことで、ペットにもそれがちゃんとに伝わり、飼い主にちゃんと愛情を返してくれていると皆さんの記事を読んでもとても伝わってきました。
いつか、皆さんが虹の橋で愛するペットに逢えますように。。
そしてポチ、体も軽くなったことだし、お空で沢山走り回るんだよ。
私がそっちに行くまで待っていてね。
大好きだよ、沢山の幸せをありがとう。
とても長くなってしまい、大変失礼致しました。
30代 女性 ゆち
ビビちゃん、天国でまた会おう。必ず探しに行くからね。
女性 プリンのママ
13歳と10ヶ月でした。
大好きなお家に連れて帰って、看取ってあげようという事になり、酸素マスクを外したら、呼吸がだんだん少なくなり、心臓も止まり、最後に大きく息をして亡くなりました。
大好きなお家に連れて帰ってやれなかったけど、息を引き取る時は側に居て撫でてあげられる事が出来ました。
とっても元気だったのに、突然息が荒くなり、病院に連れて行くと肺に水が溜まってるって、、、
意味が分かりませんでした。
でもすぐ良くなると信じて疑いませんでした。
何度も病気を乗り越えて元気になってくれたから。
後悔ばかりで自分を責め続けています。
いつも私を後追いしてたあの子はもうどこにもいません。
49日までは泣いてもいいよね。泣かせてね。
早く笑顔を取り戻して、プリンが虹の橋の袂に行けるようにママ頑張るからね。
ママが行くまで待っていてね。
今までたくさんの幸せをありがとう。
ずーっとずっと大好きだよ。
50代以上 女性 くまあつ
とても辛そう、数年前に父と母を癌で亡くしてから延命治療はしないと決めていた、生きる者として自然に死を迎えてほしいと!いつも私のベッドの下で寝ていたクッキー、、寝る時間が来るとワンワン吠えて部屋に呼ぶ、おしっこも必ず1日4回外でした!寒い夜お風呂上がりの私は身体中に毛布を巻いて、、そして澄んだ夜空を一緒に見て、朝私は体操をしながらおしっこをするクッキーを待っていた、、
おしっこするとしたよ!と勝手に歩いて行く(笑)意外と雑な育て方をしていたのに、私の帰りをいつも玄関で待っていた、だから私は泊まりの旅行も遅く帰るのも出
来ず心のどこかで自由のなさを感じていた、でもクッキーは私だけを頼りにしてくれた、子供達も必ず出勤前と帰宅後は私より先にクッキーに挨拶をする(笑)亡くなる前日クッキーと娘と私はリビングで一緒に寝た、もう時間がない事がなんとなくわかったから、朝6時前やっぱりその時が来た何度も生きようと止まった心臓が動いた、もういいよ、ゆっくり休んでおじいちゃん達が迎えに来てくれてるよ!伝わったのかもう二度と心臓は動かなかった、ありがとう今日までと最後に伝えた、一日中泣いた、涙ってあんなにでるんだ、
まだまだこれから何回泣くのか、何回思い出すのか、クッキーのいつもの居場所に何回目が行くのか、、でももう居ない、、
だけど頑張って生きて行くしかないんだ。
クッキーがくれた大切な時間を忘れずに
今はその言葉しか浮かばない。
ありがとうクッキー、、
50代以上 女性 匿名
2年前に目が見えなくなり、その後気管支の手術、咽頭虚脱で喉に穴を開ける手術、膀胱がんの摘出、抗がん剤を繰返し、今月に入って腎臓を煩い最後まで、小さな体で頑張り抜いて逝きました。最後は6日間入院をして点滴をしていましたが、強制給餌もあまり受け付けなくなり、5日目の夜、先生と相談して、その日の夜は家に連れて帰ることになりました。夜中、苦しそうに息をしていたので、夫と二人でその小さな背中を揉み続けました。
次の日、病院なんかに連れて行かなければ良かった。昼の面会の前に縁切り寺なんかに寄らなければ良かった。先生からたった今、意識がなくなり蘇生中だと連絡が入ったのは、病院の駐車場に着いたときでした。今もスローモーションの様に頭に残っています。急いで駆け上がって行き、耳元で何回も何回も名前を呼び掛けましたが、あのこは力尽きて逝ってしまいました。病院の檻の中で私を待ってたであろうあの子の心を思うと自責の念で胸がつぶれそうです。ごめんね。ナツ。ひどいママでごめんねナツ。最後の夜に家族で寝ることが出来た事だけが唯一の心の救いです。
20代 男性 ko
一緒にいたワンちゃん、猫ちゃんがいなくなった気はしません。
今になっても大切に思わせてくれることがあの子たちがまだ私たちの中で生きている証拠のように思えてなりません。いつか私たちが死ぬ時、天国でまた一緒に幸せな時間を過ごせることを祈ります。
20代 女性 匿名
癌でした。早くに手術しておけば…と、後悔ばかり。
今隣で寝ているかのように居ます。
初めてのワンコです。こんな気持ちになるんですね。想像よりはるかに辛い苦しい寂しいです…明日から、もっともっと実感するのかなと思うと苦しくていられません。
仕事から帰ると「ワンワン!」と言って喜んでくれます。ご飯を食べてると足元でお座りしてます。無視するとしょぼくれて遠くに行ってこちらを見てます。
お散歩、さや(おやつ)、お母さん
この言葉が大好きです…
会いたくなったらどうすればいいの?
もう一生会えないなんて嫌だ
またペロペロしてほしいな
ワンワンて言って走ってきてほしいな…
どうしたら乗り越えられるのか分からず検索した結果こちらにたどり着きました。
みなさん、同じ気持ちなのですね。
辛い時、悲しい時、寂しい時、いつも癒してくれました。家族との会話の架け橋でもありました。この子がいたからみんな笑っていました。沢山沢山、ありがとう。ずっと大好きだよ
50代以上 女性 ゆうか。
一年前から毎年やっている健康診断で腎不全が見つかり、腎不全の療養食に変えて、黒い活性炭のようなものを病院から処方されて飲み続けていました。2~3カ月に一度血液検査をしてましたが、数値は少しずつ上がり続けました。
腎不全は治る事はないので少しでも数値を上がるのを引き伸ばすしかありません。そして一年2ヶ月。食欲が落ちて下痢と嘔吐をするようになり、病院に行きました。血液検査をしたら腎臓数値が上がってました。先生は輸液の、説明をしてくれましたが、気休めに過ぎない。とのこと。
どうしたらいいのか、悩んだあげく、病院を変えてみました。そこの先生は分かりやすく説明していただき輸液は決して気休めではない。と言ったので、この先生に藁もすがる思いで治療をお願いしました。毎日輸液 吐き気止め 下痢止めの注射に通い、食事は全く食べず一週間水しか飲まず、検査をした所急性膵炎だということがわかりました。そして四日間入院しまして血液数値は少しずつ良くなってるので一旦退院しました。愛犬が帰ってくる。もう。嬉しくて嬉しくて。
愛犬はこの四日間で歩くことも、立つことも出来なく廃人の様になってました。それでもわが家に帰って来てくれて生きてるだけで幸せでした。翌日病院に行ったら、もう治療の方法はない。と、輸血の説明を受けて藁もすがる思いで輸血をお願いして病院に預けてきました。夕方にはお迎え電話が来る。今度こそ、元気に帰って来る。もう嬉しくて心待ちにしてました。お昼過ぎに病院から電話がかかってきました。嫌な予感が的中。一時呼吸が止まりました。すぐに来てください。
かけつけると、変わり果てた愛犬の姿。先生が汗だくで蘇生を行ってました。私の呼びかけは愛犬に届きませんでした。、
私は今、自分を責めて前に進むことができません。
助けてあげる事ができず、苦しんで病院で最後に逝ったと思うと、申し訳なさと苦しさ、寂しさで泣いてばかりです。私の命をあげたい。愛犬に感謝や、思い出を語る事ができません。
昨夜は骨つぼを抱いて寝ました。
骨を食べて自分の中に入れてみました。。
辛いです。乗り越えないといけないと思ってます。愛犬は戻らないしどんなに辛くても生きていかないといけないから。。
助けてください。
20代 女性 匿名
3年前に結婚し実家を出てますが、離れたくなく実家から徒歩5分のマンションに住み、職場もチャリ5分の所で、毎日仕事の日も休みの日も会いに行ってました。父は仕事が忙しく母は用事や整形外科と歯医者通いでお出かけが多かったので、いかに独りにさせずに済むか、いかに一緒に居れるか、それだけを思って住まいも仕事も遊びも選んでました。ぱぴが生活の中心だったし、私の世界はぱぴを中心に回っていました。
病気もあまりせず、散歩が大好きで、パピヨンにしては一回り二回り大きく、顔の左右にある模様は右しかなくパピヨンらしくないパピヨンで、イタズラが大好きで、トイレットペーパーの芯を引っ張り合いするやんちゃな子でした。いないないばぁが好きで、隠れんぼが好きで、抱っことお風呂が嫌いで、寝てる時はベロが出てて、本当に愛くるしくて、弟のような、自分の子供のような、中学の時ぱぴと一緒にアトピーになって一緒に治った時には分身かと思いました。
15歳を過ぎてからボケが始まり、耳も遠くなり噛むようにもなりましたが、お散歩中だけは子犬のように元気で走ってました。だんだん噛むことも減り、嫌いな抱っこもお風呂もできるようになり、自分で寝れずフラフラしている時は抱っこするとすぐに眠りについていました。今思うと嫌いなことができるようになるのは老いが進んでいた証拠ですね…。後ろ足と腰が弱くなってからはお散歩はあまり行けませんでした。
亡くなる前日、8日は両親が出かけるため私と旦那は朝から実家に。実家につくと後ろ足の肉球から血が出ていて病院へ行き、寝た状態でおしっこしてしまったのでお風呂へ入れ、嫌いなドライヤーもしました。嫌な事をたくさんしちゃったお詫びにハンバーグプレートを混ぜた豪華ごはんをあげ完食。16歳の誕生日を機に誕生日以外でもプレートごはんをあげるようにしてたので(足が弱ったぱぴのこれからの楽しみは食だと思って)ささみや野菜のプレートなど、柔らかめで栄養価が高く、昔から食が細い子ですがこのプレートごはんを混ぜるといつも喜んでバクバク食べていました。完食してしばらくしてベッドに寝かしつけ、両親が帰宅。一日家に居させちゃったから明日は天気もいいから大好きな海へ行ってきたら?とお金をくれて、夜中に車で大好きな伊豆の海へ出発。でも、それが間違いでした。
明日は久し振りにぱぴを公園に連れて行こう、朝早くなら暑くないし実家泊まってっちゃおうと旦那と話していたのに、私達は海を選んで…。
9日早朝伊豆に着き海を満喫し、お昼前、母から電話でぱぴが亡くなった、と…。母が起きた時にはもう死後硬直していて、病院へ連れてったところ今朝6時頃に息を引き取ったんでしょう、と。日曜日で両親も起きるのが遅く、私達も居なくて、誰も看取ってあげれなかったことが、淋しい最期にさせてしまったことが、私の腕の中で安心させてやれなかったことが、あの時実家に泊まってあげていれば、と後悔ばかりです。大嫌いな病院に、お風呂にドライヤーに、疲れさせちゃったね…。ごめんね。火葬まで中1日あったので、冷房とこまめに保冷剤を替えて、謝ったりお礼を言ったり離れたくないと泣きついたりして、1日一緒に居ました。
そして昨日、火葬してきました。大好きだったおもちゃやプレートごはん、おやつ、手紙、私が着ていた服、お花、トイレットペーパーの芯、一緒に入れていいと言う物は全部入れました。小さな施設だったので大変時間をかけて頂き、火葬中もその場に残らせて頂いて、誠心誠意尽くして頂けました。あんなに時間をかけて下さらなかったら、こんなに悔いの残らないお別れになってなかったし、あの小さな施設にしていなかったら、焼かれている間そばにいてあげられませんでした。昨日は泣き疲れて持病もあり早くに寝てしまいましたが、今朝起きると、やっぱりぱぴが居ないのがとても寂しく、会いたくて撫でたくて、どうしようもないです。
虹の橋、知らなかったし今までなら信じない私ですが、必ずまた会える、だから待っててね、一緒に虹を渡ろうねと声をかけています。
動物病院でも褒められたほど、最後まで自分で歩き、ごはんを食べて、オムツもせず、16歳も超えたのは、うちに来ているパピヨンでぱぴちゃんが初めてです。この暑い中火葬までの間も傷まずに綺麗な状態で居られて、最期まで本当によく頑張った子ですね、と言って下さいました。私の誇りです。まだ昨日の今日で、ごはんも食べれないし泣いてしまいますが、雨降り地区じゃなくて虹の橋のたもとで待ってて欲しいから、49日過ぎてからは、笑顔になって、安心させてあげたいです。
30代 女性 ゆづ
体を触るとキャン!と鳴いて痛がるので、いつもお世話になっている病院で診てもらい、その時は神経痛と言われ、痛み止めの薬をもらって暫く飲ませていましたが、一向に良くならず……。友達に紹介してもらい別の病院へ連れて行ったところ、見てすぐ、MRIが必要と言われ、神経痛では無いと言われました。結果脳腫瘍でした。かなり進行していて、すぐ手術が必要でした。
なぜ、もっと早く気づいてあげれなかったんだろう…後悔しかありませんでした。
6時間の手術にも耐えた息子。術後の回復も良く、食事も獣医さんがビックリするほど食べれる位になりました。が、2週間後、朝から電話が鳴り、亡くなってしまったと聞かされました。食べた物を嘔吐し、喉に詰まらせてしまったらしいです。
先生が気付いた時にはもう息を引き取っていたと。食事も入るようになり、痛みも和らいできたから、来週には退院出来るなっとスタッフ同士で話していたそうです。
私は今でもその時の事が頭から離れず、思い出して泣いてしまいます。
泣いたら、あの子が心配するよ……と主人から言われます。
脳腫瘍ができて、体も痛かったのに、仕事から帰ると優しい顔で迎えてくれていたあの子は、ホントに強い子でした。頑張り屋さんでした。勇気をもらいました。
あなたと出会えて、私は幸せだったよ、ありがとうって毎日思ってます。
10代 女性 メトロノーム
家に来て8年間という、私からしたら人生の約半分を一緒に過ごしてくれた家族でした。死ぬ前、いつもみたいに「ただいま」と学校から帰ってきた時、弱々しかったけど尻尾振って「おかえり」と言ってくれました。その数時間後、祖父から「ぷーが死んだ」ということを聞きました。本当に最初は悲しみよりも「え?」という死という言葉に混乱した感情が出てきました。「さっきまで元気でおかえりって言ってくれたのに。」
直ぐにぷーのところに行くと既に息は引き取っていましたが、まだ暖かかったです。死んですぐの状態でした。まだ体も硬直して無く柔らかかったです。「ぷー?ぷーちゃん?」と声をかけても返事がないし息もしていない。目も瞑っている。この時に「あ、本当にこの子は逝ってしまった」と思った瞬間ボロボロと止まらないぐらい涙がこぼれ落ちてきました。無意識のなみだでした。
ダンボール箱の中にいたもう動かないぷーをそっと敷かれた布団の上に乗せてあげました。庭に咲いていた綺麗な花とかを摘み、プーの周りを花で一杯にしてドックフードや水、お線香も家族皆でたいてあげました。後、私が一歳から大事にしてたボロボロの大切なタオルも入れてあげました。
母が「いつまでも悲しんでいるとぷーが心配してあっちに行けなくなっちゃうよ」といっていました。
プーが逝って長い1晩が立ちました。
今日はぷーを火葬場に連れていく日です。
祖母と祖父が「腐るといけないから」と言い
プーの下に氷いっぱいの袋を敷き詰めていました。夏だから腐るのが早いのでしょう。
私はプーがうちに来た時に病院で撮った写真を握り硬くなったぷーを抱きしめ
「今までありがとう。苦しまずに逝ってくれてよかった。また生まれ変わったらうちでも良いしお前を愛してくれる人のところに行くんだよ。」と言いキスをしました。この時にもまた、目がいきなり覚めてわんわんと言ってくれないかなと思っていました。
生まれてきたからには死がある。という言葉は知っているし、必ずいつしかお別れも来ることもわかっています。けれどそれはいつ訪れるのかは分かりません。
ペットを失った飼い主さんへ、今はすごくすごく辛いと思います。私もこの文を泣きながら打っています。死ぬ瞬間まで一緒に入れてやれた。亡骸をみてやれた。これがペットにとっての一番の幸せ何じゃないかな?と私は思っています。飼い主の使命を果たせれたと思っています。ここの家族になれて本当によかった。この飼い主さんでよかったな。とペットたちは思っています。これからの生活、一人の家族が抜けて虚しさが残ると思います。けどいつまでもめそめそはしていられません。私たちには私たちなりの「人生」がまだあります。ずっとそのペットを思っていると安心してペットが上に逝けなくなってしまいます。でも、たまにぐらい思い出して。「ああ、こんな事あったな」とか「この子はこんな子だったな」とかおもいだしてください。いなくなってしまったけど「家族」だったことには変わりありません。
ペットを飼っている飼い主さんへ、
ペットを愛してください。いっぱい抱きしめてあげてください。いっぱい触ってあげてください。いっぱいご飯やお水を食べさしてください。いっぱい寝させて上げてください。いっぱい一緒に遊んでください。いっぱい一緒にいた時の「思い出」をつくってください。
話が変わりますが、私は「動物関係の仕事」に将来つきたいと思っています。私は頭が悪いので人よりいっぱい勉強をしないと大学にはいけません。今まで以上に頑張って夢を絶対に叶えたいと思っています。家族にのみんな、プーのためにも。
読んでくださりありがとうございました。
このサイトを見つけて本当に良かったです。
自分の話ばかりになってしまいすみません。長文失礼いたしました。
いつまでも感謝の気持ちを忘れないで生きていきたいです。
30代 女性 ゆか
ただ、父が一人で火葬しに行ってきたと連絡がきた時(仕事を早退したが間に合わなかった)運転しながら涙が止まらなくて、名前を呼んで号泣してしまいました。
きっと、死を受け入れるのに時間がかかってしまったんでしょうね。
もう、あの子に会えないと思ったら辛くて辛くて。。
私の息子にギュッてされてもイヤがったり吠えたりせず優しかったシバちゃん。
ご飯食べてたら足下で待ってたシバちゃん。
初めてうちに連れてきた時のシバちゃん。
色んな思い出がドッと溢れてきて、ふと気づくと涙が流れてます。
一緒にいた時間幸せだったかな?
私は幸せだったよ!
約19年シバといて本当よかった。
いっぱい思い出ありがとう。
20代 女性 あすか
今だに毎日思い出し写真を見るたびうるうるする日々です。
19年も一緒に過ごしてくれて病気もせず静かに逝ってしまいました。最後を見届けられたのはなによりの救いです。
愛犬には感謝しかありません。
でも、もっとこうしておけば良かったとかもっと少しでも一緒に過ごしてれば良かったとか後悔が沢山あります。
でも家族になれたことがなによりの幸せです!
50代以上 男性 シュナパパ
もう1匹いるのでその子に愛情を注いで、虹の橋を晴れる様頑張ってます。
40代 女性 なお
うちはこの子の3人目の飼い主。
淋しく孤独なこの子はうちでの生活に慣れるまで二年以上かかりました。ずっとここにいていいんだよと言い聞かせながら こわがりでこだわりが強くやさしく繊細なライラと過ごしてきました。先住犬たちもやさしくライラを受け入れましたが ライラが心を開くのに長い時間が必要でした。最期の数日は食べることもできなくなりました。もともと寿命が短い犬種ですが まだ一緒に暮らしたかったです。こわがりのライラは自分が死ぬこともこわくて 力なく私に手でちょんちょんと合図をおくり 私はずっとなでていました。呼吸が荒くなり最期は少し苦しかったのかもしれません。私の目の前で逝きました。先に死んだ子たちがきっとこわがりのライラを見つけてくれると信じています。よろしくね はや こな。ライラまた会おう。次は子犬の時から一緒に暮らそう。私が飼い主でなければもっと長生きできたのかな。推定9歳。臆病なかわいい子でした。
40代 女性 あき
お母さんが、行くまで待っていてね。
我が家に来てくれてありがとう。無償の愛をありがとう。
50代以上 女性 匿名
14歳でした 椎間板ヘルニアに始まりリウマチ…最後は肺癌でした 亡くなる数ヶ月前から一喜一憂の毎日でした まだまだ生きる 死んだりしない大丈夫と日々弱っていくプーを世話しながら泣いていました 夜中の介護にも慣れ始めた時 プーが我が家に初めて来たときからゲージを置いている場所に連れて行ってと言うので介助しながら連れて行くと
ゴロンと横になり凄い勢いでシッポをブンブン振り出し 突然シッポが止まったと思ったらストンと体の力が抜け亡くなりました
私はプーがあまりにもシッポを振りながら亡くなったので 泣くことが出来ないでいます
泣いたらプーに申し訳ない気がして泣けないのです いつかプーに会えた時 泣いて泣いてプーに涙を拭って貰おうと思っています
30代 女性 匿名
ちょうど10年前に、里親となり引き取りました。色々あった子なので、自由にわがままに育てました。来た頃は、本当に賢くてケンカもしない子。わがままに育てたので、すっかりわがままな子になりましたよ(笑)でも、それで良かったんです。来る前は、人間の勝手さに我慢して生きてきたんだから、彼には勝手に自由に楽しく生きてして欲しかったんです。楽しかったかなー?
とてもとても、悲しく寂しいです。
まだ、おうちで寝ています。明日にはもう、姿がなくなってしまうのは本当に辛いでが、感謝してさよならしたいと思います。
20代 女性 チワワのジョン
数日前から過呼吸をするのを多々見るのを確認していたので明日病院に連れて行こうと考えていました。
しかし、明日病院に連れて行こうという考えが大きな間違いでした。
朝まで元気だったジョンの容態が急変し、口から血を吐き出し痙攣してしまったのです。
母と私は急いで病院へ連れていきましたが病院で診てもらってすぐに息を引き取ってしまいました。
母と私は後悔とジョンへの申し訳なさで涙が止まりませんでした。
ジョンはとても苦しく辛かったと思います。話せないから必死に私たちに何かを伝えたかったと思います。
もっと早く病院へ行っておけば助かった命でした。ジョンももっと生きたかったと思うし私たち家族ももっとジョンと一緒に生活していたかったです。
この時間でも涙が止まりません。
後悔ばかり
愛犬がもう冷たくなっています。
今夜は愛犬のすぐそばで寝て、明日埋葬してきます。
ジョン本当にごめんね。
9年間毎日お留守番ありがとう。
ジョンのおかげで家族は毎日明るくいることができたんだよ。
明日の朝愛犬がいないということを考えると辛いものがあります。
ジョンはきっと先に亡くなった私の祖母が面倒を見てくれていることでしょう。
ジョンとまた会える日を楽しみにしています。
すぐに気持ちは切り替えられないとは思うけど頑張っていこうと思います。
愛犬のなにげない変化が大きな病気のサインかもしれません。
少しでも変化があるならすぐに病院へ行くことをおすすめします。
愛犬の命と病院の診察代を天秤にかけたらどっちが大事かなんて言わずともわかると思いますし、私のような後悔をする人が1人でも減ることを願っています。
女性 黒柴
20代 女性 ゆうの子分
同じようにゆうも膵炎と診断され
どういう病気か検索し知っていく中で
ゆうがきちんと向き合えるように教えてくれたのかわかりませんが
ここにたどりつきました。
月曜日は18歳のくせにもっと散歩をしようと誘ってくれました。
いつもみたいにおちょくって怒られました。
火曜日に吐いてから先生も18歳まで生きたんだから
それだけの力があるから点滴を毎日して頑張りましょう!
ゆうくんを信じましょう
と言ってくれました。
でも 水曜日の点滴ではもう全重力が私にすべてかかるほどぐったりとしていました。
目はまだ元気なのに気持ちも元気なのに体が動かない、
動きたいし食べたいのにできない
痛み止めをしたのに30分おきに痛くて叫んでしまう
かわいそうで
ゆう がんばんなくていいよ
といってしまいました
死ぬ直前 5回も吠えました
いい声だね!もう一回!そうそう!
ゆう頑張ったね
大好きだよ ちゅーとキスをしながらゆうはいってしまいました
よそ見してわたしがご飯を食べると盗み食いしちゃうゆうも
お姉ちゃんとけんかしてる私の味方をするゆうも
さんぽがめんどくさくて近道するゆうも
お留守番がだいっきらいでやけぐそしちゃうゆうも
クッキーをくわえて見せびらかしてよだれをたらしちゃうゆうも
生シイタケみたいな感触の耳も
年々増えるしみのようなもようも
全部 ぜーんぶくみはゆうがとってもだいすきだよ
長い間一緒に過ごしてくれてありがとう
まだ まだ まだ 泣いても泣いても泣きやめなくて目がもうあかないんだけど
でも でも 甘えっこなゆうの子分を許してね
だって ゆうがだいすきだからさみしいんだもん
ずっと ずっと 当たり前のようにそばにいてくれたから
ゆうがつらいのは嫌なんだけどでもいなくなるのもいやなんだもん
ずっと ずっと やきもちやきなゆうのこと忘れないよ
あたしがそっちに行くのはたぶん まだまだ先かもしれないけど
待っててね!
いっぱい いっぱい思い出作って
新しい楽しい遊び方とかいいお散歩コース教えてあげるから
いっしょにさんぽしようね!
ゆうもあたしが居心地が良くなるように
先にそっちでも親分になっててね!
だいすきだよ
20代 男性 坊ちゃん
小学校1年生からずっと一緒でした
今日まで入院していたのですが体調が悪く最後は家で看取ることとなりました
車の中で温かいタオルに巻かれて震えているのを感じてそこまで我慢していたのに号泣してしまいた
家に着いて30分後に呼吸が止まり、心臓が止まるとこまで泣きながら一緒にいてあげられて幸せでした。
初めての身近な死にとても悲しいです
苦しまずにいけたこと願いながら今も泣いています
小学校1年生から今までたくさん思い出をありがとう
30代 女性 匿名
一ヶ月前、具合が悪くなり、急遽、かかりつけの病院に…
検査の結果、赤血球の数値が、1桁。
普通なら、ショック状態で、死んでもおかしくない数値だとか。家の子の場合、徐々に下がっていったみたいで、助かったみたいでした。2日に渡り、輸血。迎えにいくときは、覚悟してたのですが、輸血がうまくいき、みるみる元気になり、ここ数ヶ月で見たことないくらい元気でした。問題は、自力で、赤血球を作り出せなければ、輸血の繰り返しになるということ。家族で決め、次は、輸血をしない。体の中には、腫瘍がいっぱいで、もう手術は不可能な年齢。苦しまず、逝かせてあげたい…できれば家で看取りたい。そんな理由で、薬だけもらいに行くことにしました。
今、思えば、一ヶ月前のあの時、病院に行ってよかった。この一ヶ月、元気な姿で、一緒にいれた。
不思議なことに、具合が悪くなってからの2日間、仕事が休みで、一日目は、母がいて、二日目は私がそばにいることが出来た。
最後は、私の腕の中で、看取ることまでできた。本当に出来すぎなくらい、賢い子だったね。
昨日から、涙が止まらない。家にいるのが、苦しい。いつもいた場所に、どうしても目が行く…感謝でいっぱいなのに…がんばったね、ありがとうを繰り返しながらも、寂しい、辛いの感情のほうが、まだ強い。こんなんじゃ、安心して逝けなくなっちゃうよね。今は、まだ受け入れられていないけど、もう少し、待っててね。
いっぱいの思い出ありがとう。
ずっと、忘れないよ。サクラ。
大好きだよ。私が、天国に行く時に、また、一緒にいようね。
女性 匿名
文を読んでいて、気になった事があります。気づきませんか?どうしてほんの少し前まで元気だった愛犬が死んでしまう事になったのか。
生死をさまよう訳ではない歯の治療での、獣医による手術、犬用の添加物まみれのおやつがなによりも大切な愛犬の命をうばったのです。
高脂肪のおやつだからではなく、
寂しいとおもって沢山あげた分の、添加物を摂取したからですよ。
獣医の言うことは、すべて間に受けてはいけません。疑ってかからないと愛犬が殺されますよ。
病気ではないのに飼い主を騙して病名を付け、その治療で、病気にして、する必要のない手術で命を落とすのです。何人も見てきました。
犬にとって全身麻酔手術がどれだけ負担になるかわかりますか?
私はもともと犬の全身麻酔手術の怖さ裏側をしっていたので、愛犬が骨折で手術を勧められた時、獣医に全身麻酔で死ぬ可能性は0ですか?と訪ねました。0ではないといったのですよ。
手術は最悪死んでしまうリスクがあるため避けたいと相談した所、獣医から今どきそんなこという飼い主はいない。おかしい。といわれた為わざわざきいたのですが。生死をさまよう緊急事態ならまだしも、命に関わる手術ではないのに、命を落とすリスクを背負ってまでも歯の治療、骨折の手術、しなくてはいけませんか?実際愛犬は、ギブス固定のみで、直しました。
ビタミンdの、注射、治りを早くする薬など一切のませませんでした。
それで、2ヶ月で綺麗にくっつきましたよ。もとよりも丈夫に。
偉そうにきこえてしまったならごめんなさい。
ただ、今、当たり前なことはあたりまえではないのです。
手術、犬のおやつ。ドックフードなども、裏ではひどいもんですよ。
最愛の愛犬を無くされて、次飼われるかはわかりませんが、愛犬の死から学ぶ部分は私はそこだと思ったので書き込ませて頂きました。長々とすいませんでした。
40代 女性 匿名
ん。そして誰にも亡くなったルイの代わりにはなり得ないと思うし、まだまだこの悲しみと苦しみは乗り越えられそうにありませんが、残ったチョコにはこれから注ぐ筈だったルイへの愛情も注いで、一緒に悲しみを乗り越えて行こうと思います。
20代 女性 匿名
50代以上 女性 匿名
50代以上 女性 ビーちゃんママ
40代 女性 ぴぴっす
肥満細胞腫と言うガンを半年前に発覚して、その前から13キロあった体重が2か月で9キロとなったので、掛かりつけの先生に痩せて来ていて可笑しいんです。と伝えてましたが、その当時はキョロちゃんは太っているから痩せているぐらいが良いんだと言われました。
思えばガンが悪さをしていたんだと思います。
ガンだと解って、すぐに手術を勧められました。
手術をするならどの病院がより安全に高齢のキョロちゃんを手術出来るか調べて転院もしました。
ただ14歳でパグと言う犬種で私は出来るなら手術は避けて、何とか薬で持ちこたえてくれれば。あとは、自然に運命に任せようと心に決めていました。
その事を先生に告げると、細胞腫が大きくなったり、小さくなったりするので、様子をみながら頑張りましょうと、飼い主の思いに寄り添って下さった先生でお世話になった事を本当に感謝しています。
亡くなる日が来るまで、いつも通り本当に普通でした。
その当日だけ、呼吸が荒くなったので、病院に行こうとしたのですが、週に一度のたまたまの休診日でした。
ご飯は呼吸があれだけ乱れてるのに、モグモグ食べたがって、排泄をする力もないのだから食べさせ過ぎては体に悪いと思い、普段の量よりも少し多めに好物のウエットタイプを与えました。
まさかその2時間後に行ってしまうなんて。
一切老犬としての苦労を私に掛ける事なく、本当に親孝行な子でした。
もっと甘えてくれてよかったのに。何にもしてあげられなかった。助けられなかった。
いきなり苦しみだしたキョロちゃんを抱きしめて揺さぶる事しか出来なかった。
帰って来て、帰って来て!
苦しみながら、みるみる私の手の中で舌がチアノーゼになっていき、食べ物を喉に詰まらせたかのように。
助けられなかった無力さ、自責の思い、苦しくて苦しくて、私の相棒、帰って来て。
どうにも今でも苦しくてなりません。
他の方のお話も読ませて頂きました。
みなさん、本当に辛い苦しい思いをされた事だと、身が引きちぎられる思いだったと。
でも、ごめんなさい、これは私の苦しみからくる嫌な心です。
キョロちゃんは14歳で亡くなってしまった。16歳で亡くなった方のお話を見たりすると、それだけで羨ましくて。ううっ。と
まだあと1年は頑張れるよね?もっとかな~?と笑いながらキョロに話しかけてた事。
全てがもう取り戻せない。
食べる事が大好きだった子が万が一の手術で逝ってしまったり、体にメスを入れて、こんなに元気なのにガックシしてしまったら可哀想とか思って、手術をしなかった事、何が正解だったのかさえ、本当にわかりません。
誰かの最善を尽くしたんだよ。って言葉さえ、もっとやれることがあったはずだ。
キョロ、キョロ、とまだその場所で立ち止まってしまっています。
いつか、元気になります、ならないとダメだとは思います。
その時が自然に訪れてくれるのを待つことしか出来ない。
私の相棒、私の心の灯だった子。
40代 女性 まどか
両親が海外旅行に行く4日ほどの間、彼をかかりつけの獣医に預けることにしました。もしものことがあっても、獣医院なら安心だと。しかし、高齢で慣れない場所でひとりぼっちだったこともあってか、両親が迎えに行く一日前に、病院で独りぼっちで息を引き取りました。そのころ、私は海外で働いていて、気軽に実家に帰れる状態ではなかったのですが、こんな事になるのなら、チャッキーのために無理をしてでも休暇をとって、実家で彼と過ごせばよかったと、悔やんでも悔やみきれません。そうすれは、彼が寂しく、ひとりぼっちで最後を迎えることはなかったのにと、自分を責めてなりませんでした・・・。
三年ほどたった今、ようやく気持ちに折り合いが付けれたのでは思っていました。
そんな折、三日前に愛犬を亡くしたという、大変落ち込んだ方と偶然話す機会がありました。しかし彼女に何も言葉をかけてあげることが出来ない自分に驚きました。頭では、こういったアドバイスをしてあげようと思っていたのですが、言葉に出そうとする前に涙の方が先に込み上げて、当時の様子やどうやって悲しみえをやり過ごしたのかなど、とても話すことができませんでした。
私はまだ、ペットロスから立ち直っていないのでしょうか?
20代 女性 匿名
すごく寂しくて、悲しくて、
こんな喪失感からどのように立ち直ればいいのか分かりません。
みなさんの投稿を見ていたら、
共感する気持ちがいっぱい溢れていて、見ては泣いてを繰り返しています。
みなさん同じような気持ちでいることを知って、私だけじゃないんだと思ったら、おかしいですが安心しました。
先程火葬してお骨が帰ってきました。
ついに姿形がなくなってしまったんだなぁと改めて感じて、
ずっと一緒に成長してきたから、先に死ぬなんてわかっていたことなのに受け入れられない自分がいます。
とてもかわいくて、賢くて、優しい愛犬でした。兄弟で喧嘩していると、ワンワンと吠えて仲裁に入ってくれたり、泣いていると舐めてくれたり、山登りして、富士山まで一緒に登ったりして、どこまでもかわいい愛犬です。ありがとう。これからもずっと大好きだからね。
40代 女性 るるラブ
40代 女性 シュウのママ
15年を一緒に過ごしたミニチュアダックスのシュウが虹の橋を渡りました。
小さな頃から手のかからない子でした。ビビりで、大人しくて、優しい子でした。
亡くなる5日前からご飯を食べなくなりました。
去勢手術によるホルモンバランスの変調か、常に食べ物を欲していたシュウ。母といつも『シュウがご飯を食べなくなったら多分お迎えが来るときだろうね。』なんて、話してました。
そんなシュウがご飯を食べないなんて。試しに焼き魚を鼻先に持って行くと美味しそうに食べたので、少し安心していたらその少し後、全部吐き戻してしまいました。
犬用のミルクを与えてみても、美味しそうに飲むのですがすぐに吐き戻してしまいました。
病院に連れて行かないとと思った矢先に呆気なくシュウは旅立ってしまいました。
触った時はまだ温かく死後硬直もなく、逝ってすぐだったのでしょう。
何も食べてなかったけど、排便をして汚れていたので最期にお尻を洗いました。
力なく腕の中でクニャクニャのシュウ。
最期も手がかからない子でした。
最期ぐらい手がかかる子でも良かったのに。
まだ実感がなくて家の中で姿を探してしまいます。
小さい頃からの写真を見ては涙しています。
こんなにツラい気持ちが晴れる時は来るのでしょうか?
虹の橋を渡ったシュウ。
私といた15年は幸せだったでしょうか?
病院に早く連れて行けばもしかしたらもっと一緒にいれたのでしょうか?
生まれ変わった時も、またシュウと過ごせますように。
最後になりましたが、愛する子たちをなくした皆様、お気持ちお察し致します。
10代 女性 匿名
出会いは覚えていません。私が物心つく前に前の飼い主から逃げてきて、怪我をしていたらしいマロ。親族総出で飼い主を探したけど見つからなくてうちで引き取ることになったマロ。
一番最初の思い出として覚えているのは、母親が犬小屋に名前を書くところ。来た当初のことはそれ以外全く覚えていません。
でも、まだ幼い僕とマロが散歩に出た時、僕が迷子になったらしく、マロはうちの母に僕はどこかと聞かれて探して連れ戻してくれたそうです。誰よりも賢かったマロ。自慢のお姉ちゃんだった。狐みたいな顔で、正直マロより可愛いわんこなんて腐るほどいるとおもう、でも、僕にとってはまろが一番の美人さんだった。優しくて賢い目をしてた。いつも僕を心配してくれてた。マロ、まろはそんなふうにいつも優しかったのに、お留守番が怖くてたまらなかった時はそばにいてくれたのに、お葬式に参列できなくてごめん。ごめんってばっかり言ってごめん。
あと、今までありがとう、本当にありがとう。いつまでもマロは自慢のお姉ちゃんだよ。優しいマロに似て、息子二人も僕を気遣ってくれるようないい子です。
人間年齢96歳、大往生だね。
ずっと、いつまでも、実家に帰ってくるの、待っててくれると思ってた。
母が言ってた、まろはお前を待ってるよ、って言葉、本当だったんだね
でも早いよ、年末年始帰ってから、最後にあってからたった1ヶ月じゃん。
次帰ってくる時まで、待っててくれると思った。
ごめん、ぐちぐちいって。僕、大丈夫だから、そんなに心配しなくても、もう今年で二十歳だからさ、安心してよ
あとあと、まろのリードは僕が貰い受けることになったから、今度僕の住んでるところをお散歩しようよ、また一緒に。
ありがとう、まろ
おやすみなさい
40代 女性 匿名
私に病気が発覚し、緊急入院、手術をすることになりました。
入院当日、[1ヶ月で帰ってくるから待っててね]と言いそれが最後の別れになりました。
退院する二日前に亡くなりました。
今もまだ気持ちが整理できません。
40代 女性 あたろう
30代 女性 もんにゃん
具合が悪くなってから1週間。
手術に耐え、術後の治療にも耐えたけど限界だったようです。
面会に行った時に急変し、そのまま、、、
最期は家で看取ってあげたかった。
病院で1人で死なせてしまった。
後悔は絶えません。
涙は止まりません。
今隣に寝ているモカはもう動きません。
撫でてもつねっても怒りません。
冷たくなったモカに話しかけながら、思い出をたどりながら死を受け止めようとしています。
20代 女性 みき
夜急にご飯を食べなくなり、ダルそうにしていたので急いで病院へ連れて行きました。
検査をしていただくと、「大腸と小腸の部分に腫瘍が2個ある。血液検査の貧血数値が異常なので出血をしている可能性が高い、緊急手術が必要」と言われました。
3ヶ月前に突然痙攣を起こし、同じ病院でエコー、レントゲン、血液検査を受けていたのですが、原因がわからず、MRIを勧められましたが、2年前に別の病院で胆嚢摘出手術を受けた際に金属の医療用クリップが入っている事を指摘、気付きました。
その為MRIが受けれず、利尿剤で脳圧を下げながら様子を見ていた矢先でした。
無事手術は終わりましたが、合併症で腎臓が悪化してしまい、ご飯を食べず、立つ事も困難な状態になってしまいました。
腎臓の炎症が落ち着く事を祈りながら、1週間後、病理検査の結果が出ましたがやはり悪性でした。GISTという少し珍しいガンで悪性の中でも強い悪性、また腫瘍部分から出血をしていたので、転移の可能性が非常に高いと告げられました。
もう絶望的で頭が真っ白で夜眠れず泣いてばかりいました。
毎日面会に行きました。フラフラ意識がモウロウとしながらも、私の顔を見た瞬間立ち上がってシッポを振ってくれました。
入院7日後、血液検査の数値は悪くなる一方で、肝臓も悪くなり緑色胆汁を頻繁に嘔吐するようになりました。
とうとう先生から安楽死の話をされました。
私の顔を見たら立ち上がってシッポを振ってくれるちこの姿を見て「先生、安楽死お願いします」なんて口が裂けても言えませんでした。
ですが、血液検査の数値がもう機械で測定出来ない程悪くなり、「いつ心配停止になってもおかしくない、今生きてるのはこの子の生命力の強さです」と言われました。
病院からは車で10分程の距離にあり、もし容態が急変しても間に合わないかもしれない‥、と考えていたらちこが帰りたいと、私の腕に入って来ました。先生も驚いていました。
その姿を見て、お家に連れて帰る事を決意しました。
酸素室を置いて、皮下点滴で過ごしました。初めは久しぶりのお家の中をヨロヨロと一部屋一部屋見ていました。
ご飯はやっぱり食べず‥。おしっこを自分で出しているのが、唯一の希望でした。
ガンの名医の所に相談しに行ったり、いつもちこと行っていた神社にお祈りしたり、やれる事を必死に考えてやりました。
名医の方にはガンの前に腎臓の炎症が落ち着く事が最優先と言われました。
なんとかお家で過ごしながら炎症が落ち着いてくれたら‥と願いました。
お家に帰って来て2日目、寝ながら下痢をするようになり、夕方に眠るように旅立ちました。死因はわかりません。
亡くなった今でも自分を責めてしまいます。
ご飯がダメだったのか、運動不足にさせてしまっていたのか、愛情が足りなかったから逝っちゃったのか‥。今更責めても意味もないのに。
明後日、葬儀を開いて感謝と一旦お別れをしようと思います。
ちこ、頑張ったね。14年間最高の幸せをありがとう。一旦お別れだよ。お父さんの所に行って待っててね。私もいつか行くからね。
20代 女性 匿名
私の愛犬は13歳で前日はかわりなく過ごしていたのに、大好きなお布団の中で眠るように旅立ちました。年齢を重ねるごとにあちこち不調が出て、心臓も悪かったですし、年齢もありますし生を全うしたと思います。
一緒に過ごした日々を思い返すと涙が止まらないですが、とてもかけがえない日々で幸せでした。もう隣にいないのは淋しいけれど、愛犬には感謝しかありません。
他の方のコメントをみても涙が止まりませんが、読んでいて温かい気持ちになれました。
40代 女性 みっぴ
ヘルニアの手術で無事に終わり数日の入院で帰ってこれるものばかりだと思っていました。
先生から電話があり容態が急変したので今すぐ来てください!と。
もう!気ばかりが焦って車で病院へ着くと先生が心臓マッサージをしていました。手術の途中で心臓が突然停止してしまったと…
目の前に可愛い可愛いアタシの愛犬が喉から管を入れられて頑張って手術をうけていたところだったのを見て!必死で戻ってくるように声をかけましたが…
マッサージを頑張ってしてくれている先生にもう大丈夫ですムリなんですよね?
泣きながらそう言ってしまっていました。
まさかヘルニアの手術で手術中に亡くなるなんて思ってもいなくて本来なら夕方に術後の面会の予定だったので涙ばかりが出てきて
昨日朝から痛みどめの為に1日入院をさせてしまった事をとても後悔しています。
結局亡くなってしまうのなら痛みで辛くても夕べ家に連れて帰ってきてればよかった…と。
愛犬に対して寂しく不安で辛い思いを夕べさせたことを後悔ばかりしていて
どうしようもない気持ちで…
3年前に1代目のワンチャンを亡くし今回もこんなかたちたで亡くなる事になるなんて自分の気持ちがどうしようもなくなっています。
明日火葬を自宅前でしてもらいます。が、子供と同じに可愛いがってきた愛犬が突然亡くなるなんて頭ではわかっていても後悔で涙が止まりません。
でもここで皆さんの経験を読みもう1匹ワンチャンがいるので、その子を亡くしたワンチャンと同じくらいに可愛がり
まだ亡くして数日もたっていないので整理がついてないですがペットロスに苦しんだりしないようにガンバっていけたらなぁと思いました。
13歳で突然逝ってしまったアタシの可愛い子。
帰ってこれると思っていたのに…
本当に大人しくてお利口さんで可愛い子でした。
同じ様な経験をしている方が沢山いると言うことを知れただけでもとても救われます。
50代以上 男性 匿名
50代以上 女性 匿名
保護犬だったので本当の年齢はわかりませんが12年前に1~2歳と言われ、我が家の家族になりました。
シベリアンハスキーのMIXで大きい子でしたが、おとなしくて優しい男の子でした。
毛並みもふわふわで良かったのでまさかこんなに突然死んでしまうなんて思いませんでした。
1ヶ月くらい前に大好きなおやつを食べなくなったのを、ただ好みが変わっただけって思ってて。
そのうち後ろ足が歩く時おかしいことに気付き、レントゲンや血液検査をしましたが、異常なし。
しかし日に日に歩き方や排尿がおかしくなったので再度病院に行き、今度はエコー検査をしてもらいました。
先生の説明の「お腹いっぱいに腫瘍があります」という言葉が理解できず、その時はまた元気になるような気がしてました。
それからすぐに何も食べれなくなり、注射器で無理やり口に入れ、点滴をしに毎日病院に行ってました。
苦しそうにしてるのに何度も「頑張って!またお散歩に行こう!」って言ってました。
あんなに苦しそうにして充分頑張ってたのに…
最後は何回か尻尾を振って大きく息を吸って息絶えました。
色々なことが思い出され、答えの出ない自問自答を繰り返し毎日辛くて泣いています。
腫瘍はエコーでないと見えないので、エコーを組み込んだ検診をおすすめします。
きっと何年たっても忘れられず前をむけるかわかりませんが、今は痛みのない世界で楽しく暮らしてくれていることを願っています。
ずっとずっと大切で大好きだよ。
まろ、ありがとう
30代 女性 よぅ
皆さんの家族、きっと幸せだったと思います。こんなにも想ってくれる人がいて。
50代以上 男性 多牌
熱中症で亡くしました
早く気が付いて病院へ連れて行ってたら
まだ生きていたと思うと涙が止まりません、
自営業なので朝起きたら一緒に職場へ行って
終わったら一緒に帰宅する生活を16年続けていたので
ひと時も忘れることができません。
沢山のお客さんにも愛された愛犬の最後のひの姿を見てあげて下さい。
20代 女性 匿名
小さな頃から病気1つしない元気な子でしたが、下血や吐血をし肺に水もたまってしまい入院生活になり、仮退院と入院を繰り返していました。病院では全然食欲もなかった子が先生に「ご飯食べないと帰れないよ」と言われ、次の日の朝食べた事を聞くとよっぽど帰りたかったんだと感じました。やっと正式な退院になり、また一緒に暮らせると思っていたのですが、ある日の夜中様子がおかしく、遠くの夜間救急に車を走らせました。チアノーゼを起こし酸素室に入れられ、救急の先生からは本当はこのまま入院した方がいいんだけど、この子のストレスになるから朝一でかかりつけの病院に行って下さいとのことでした。家に帰り病院が開くのを待っていると、急に痙攣を起こしました。病院に電話をかけ診療時間前に診てもらう事ができ、診断の結果、脳梗塞でした。この3日が山だよと言われ、仕事も早上がりし、毎日病院に通いました。会いに行くと横になったまま鳴いていました。入院から3日目の朝、仕事が休みだったのでいつもより長く面会できると思っていたら、母が私の部屋に来て「ペロがね、今朝亡くなったよ。落ち着いたらお迎え行こうね。」と告げたのです。最期に一緒にいれなかった事やもっと散歩や遊んであげればよかったなど後悔や色々な思い出が巡って泣き崩れました。最期の夜は一緒に隣で眠り、翌朝、火葬場へ。
そこからが私のペットロスでした。四六時中、愛犬を思い出し泣く日々。家族や職場では笑顔を作っていたのですが、1人になると号泣でした。今でも思い出して涙する事もあります。
そして今年の5月にやっと新しい子を迎えました。実家を出て生活にも慣れ、今の子を迎える決意をしました。犬との生活も躾も久々すぎて探り探りな生活ですが、今は幸せな日々を送っています。仕事でなかなか構ってあげられないのですが、今の子には精一杯の事をして、欲を言えば最期は笑顔で送り出してあげたいです。きっとその時は愛犬ペロが迎えに来てくれると思うので…
40代 女性 匿名
20代 女性 匿名
小学生から飼って、私はすっかり社会人になりました。
それくらい、時は流れて愛犬との楽しい時間も沢山あり昔を語るには愛犬がいつも思い出に出てきます。
なので、愛犬が亡くなるのは凄く悲しいです。
私は今回初めてペットが亡くなる、という事を体験し思ってた以上にショックが大きく何をしても涙が溢れてきます。
もっと、尽くしてあげれたら良かったと凄く思ってしまいました。
亡くなる2ヶ月ほど前から急に毛が抜けたり、皮膚がボロボロになり、目も白内障、耳も聞こえず、最期は不安で苦しかっただろうな…と思います。
でも弱音は吐かない子だったので、静かに息を引き取りました。
いつも眠ってる時の体制で安らかな顔をしているのを見たら、楽になったんだ。あっちで走り回ってるかな。と思う反面、凄く悲しい気持ちになりました。
もう会えないんだ。そう思った瞬間、悲しくてどうしようも無くなってしまいました。
動物にも、人間にも死は必ず来るものだと分かってはいるのですが、まだ心が落ち着きません。
そんな時にこのサイトを見つけ読んでみると、今の私と同じ様な事が書かれていたので、少し安心しました。
姉妹とも話し合い、家の木の下に埋葬しました。
きちんと、ありがとう。頑張ったね。ゆっくり休んでね。と手を合わせて拝みました。
まだ、完全にぬぐい去れた訳ではありませんが明日からまた少しずつ愛犬が頑張って長生きしてくれた分、私も頑張ろうと思いました。
少し気持ちが落ち着いた頃に愛犬に手紙を書きたいです。
ありがとうございました!!
20代 男性 マロン兄
私は離れて生活しているため亡くなる時に立ち会えませんでした。今は実家に帰ってきて本当に亡くなったんだと実感しています。実家から住んでいるところに戻るときは、これで会えなくなると毎回覚悟していましたが、実際に亡くなると本当に辛いです。
母の話によると、朝から散歩してご飯をあげて走り回っていましたが、ちょっと息苦しそうにしていたそうです。もともと心臓に病気があり、体調には気にしていましたが、先月の健康診断の結果が良くなり一安心していたので、気のせいだと思いそのうち落ち着くと思っていたそうです。夕方に急に呼吸が荒くなり、急いで病院に行った時には心臓に肺が圧迫され、肺に水がたまっており手遅れだったそうです。最後は実家に帰ってきて、母に抱きかかえられた状態で亡くなりました。
母はもっと早く病院に連れて行けばよかったと後悔して未だに泣いていますが、亡くなった日もいつも通り元気な姿を見せて母に心配させないようにしてくれていたんだと思います。
亡くなった時、大好きな母に抱きかかえられて亡くなって幸せだったと思います。
優しくておとなしい子だったので天国では自分たちを見守っててくれると信じています。今まで本当にありがとう。
40代 女性 匿名
仕事がら泊まりの仕事もあり、泊まりの時は兄が夜、朝と食事の世話はしてくれてました。
会社に無理言って泊まりの仕事も一泊にしてもらっていたのですが、2泊の仕事がついてしまった。断れず行って帰って来たらあちこちに吐血の跡…いつもいるハナのベッドにいない。探してると、和室の畳の上に…。
歩けなくなっていた。いつからいたの?
すぐに抱っこして病院に…でも、夜間病院は21時から…まだ一時間半もある。でも、気持ちは焦りすぐ連れていった。
一時間以上車で待ってる間抱きしめて、何度も話しかけるといつものハナ。
やっと電気がついた!抱き抱えて病院のドアを開けた瞬間、大きくのけぞって2回鳴いた瞬間、失禁してぐったりした。
何度も何度も名前を呼んだ。先生もすぐに動いてくれたけど…3時間頑張ってくれたけど自発呼吸にならない。
ハナ、よく頑張ってくれたね。
私が帰るのを待ってくれたんだね。
最後を看取れて良かった。
私の腕の中で逝ってくれて良かった。
休みが不定期で次の日が休みなのがわかっていたように逝ってしまった。
1日家でいつもの場所で一緒に過ごし、16時に天国に…小さくなったハナを一旦連れて帰ろうかと思ったけど、お友達がいる方がいいと思いお友達と同じ場所へ…
一人、家に帰ると涙が止まらない。
お風呂から出て来るのを待ってくれていたハナ
帰ったら、ずっと後をついて歩いてたハナ
あちこちにハナを探してしまう。
ハナ、本当にありがとう。
ねーちゃんは当分泣いて過ごしそうです。
50代以上 女性 匿名
毎年健康診断してたんじゃないの?なんで、こんな高齢で心臓病がわかるの!最初はそんな気持ちでした。確実に咳が増えても、比較的元気があり、お散歩も、毎日おねだりされました。行くと落ち着くので、お散歩禁止してずっとキュンキュンされるより良いだろうと、短時間ですが夫が連れて行きました。
暑い夏も24時間エアコンかけっぱなしで乗り切り、このまま薬を飲んでいれば、上手くコントロール出来るのでは?と安心してしまいました。その頃は咳も減っていました。今となれば後悔しかないのですが、10月に入りドライブに連れ出してしまったのです。それほどに元気だったのです。
それから、しばらくして体調を崩してしまい、病院の酸素室に入院。家でもレンタルして、利尿剤も増やし、様子を見ていました。その日の朝は、気がつくともう起きていて、ちょっと苦しいのか、じっとしていました。薬と少量の水を飲ませ、心臓病用の缶詰のフードをほぐして食べさせました。食欲もあり、体調を戻しつつあるように思いました。
ちょっと食べにくいかな?水を飲ませようか?ちょっとその前に、自分はトイレに行こうと。
ほんの1,2分後に戻ると、愛犬は倒れていました。何が起こったのか、一番恐れていた瞬間が来たのは確かでした。叫び、夫を呼び、人工呼吸も試みましたが、何度か息をしてそのまま息を引き取りました。
時間を戻したい。私たちは何とバカだったのか。無知だったか。後悔しかありません。
元気だったせいで病気の深刻さに気付かずに、どんなに細い道をギリギリのバランスで薬で調節していたか。亡くなって初めて理解したのです。
若い頃は写真も撮れないほど、じっとしていない子で、ドックランを疾走する姿が美しかった。手を焼いた事もありましたが、本当に愛しい存在でした。亡くなる前の日、愛犬への対応の違いで、腹を立てた夫が隣の部屋へ行こうとして、閉めたドアを、愛犬がトコトコ寄ってきて、『もう!喧嘩しないっ』とでも言うように前足でトン!と開けたのでした。私と夫は顔お見合わせ喧嘩は終わりました。
病気の犬に心配かけるなんて!まさか翌朝亡くなるなんて!夫も私も自分を責め、お互いを気遣っています。
私たちは犬が大好きです。将来また、飼いたいと思えるようになると思います。いえ、飼えなくてもいいのです。でも、犬を幸せにするにはどうしたらいいのか、病気の事、しつけの事、ちゃんと知っておきたいと思いました。知っているつもりにならないように。同じ過ちをしないように。ワンコが辛い思いをしなくて済むように。
本当に虹の橋があってほしい。そこで待っててね。ありがとう。家族みんなあなたが大好きです。ずっとだよ。
50代以上 男性 じじい
2~3日前から突然夜泣きが始まり、そばに行ってやると泣き止むというパターンが続いておりました。
当日もそのような状態で家内と二人でそばに行ってやっておりましたが、徐々に息が弱くなりとうとう旅立ってしまいました。
幸いなことに私たちの目の前で旅立ってくれました。
友達から生まれたばかりでもらった犬でしたが、家に来てくれてありがとう。幸せだったかな?
君の写真や動画を見ては妻は泣いてばかり居ます、私たちがそっちに行くまで虹の橋の前で待っていて下さい。しばらくバイバイだね!
40代 女性 匿名
ミニチュアダックスの3.5kgの小さな女の子ユキちゃん13歳9ヶ月でした。
4日前までは普段と変わらずだったのに…。
2年前にもミニチュアダックスの男の子アトムくんを13歳5ヶ月で亡くしています。
私は離婚していて子供も居ませんのでこの子達が私の子供のような存在でした。
アトムくんが天国へ旅立った時も何かおかしいなと思ってから亡くなるまでアッと言うまでした。
その時も辛くて辛くて涙が枯れるほど泣きました。でも、私の横にはユキちゃんが居てくれたので、いつまでも私が悲しみにうちひしがれてたらユキが可哀想だと思って立ち治る事が出来ました。
アトムくんが亡くなった後、一人でお留守番してるユキが可哀想で仕事が終われば急いで家に帰り、休みの日もユキちゃんと一緒にいれるようにした。
もう、私にはユキが生き甲斐でユキと一緒にいれる時間がホントに幸せで楽しい時間でした。
そのユキがもう居なくなってしまって今私は喪失感でいっぱいで、今すぐこの手でユキに触れたい抱きしめたい気持ちで苦しいです。
ユキが亡くなってしまって悲しいのは悲しいんですが、ユキを火葬に出す前まではユキに触れる事も抱きしめる事もできた。でももう今は二度と出来ないと思うと何もする気になれず、昨日から食事も一切食べてません。
アトムくんがいなくなり、ユキもいなくなり静かすぎる家…。
何処を見てもあの子達の思い出が。辛すぎます。
50代以上 女性 匿名
50代以上 女性 とし
心臓病からくる咳が冬になってからひどくなり主治医にもそのことばかり相談し追加のお薬をいただいたりしてました。でもそのときすでに腎臓病が悪化していたのだと思います。血液検査も数ヶ月とばしていました。あの時腎臓病の進行具合もちゃんと気にかけていたら、早めに適切な治療を受けていたら今もあの子は当たり前のようにここにいてくれたかもしれません。
何をする気力もない、ただただ辛くて泣いてばかりいますが、それでも寝て食べて仕事に行かなくてはなりません。楽しみにしていた週末も今は苦痛で、職場にいるほうが気が紛れます。
みなさんのコメントを読ませていただいて、こんなにも同じ気持ちでいることに救われています。客観的には、ここまで愛されたワンコたちは短くても長くてもどんな最期であっても、本当に飼い主たちに愛されて愛されて人生を過ごした幸せなワンコたちだと信じられます。
でもそこじゃないんですよね。ただただもう一度あの子に会いたい、ふれたい、抱っこしたい、それが何をどう頑張ってもどんなにどんなにもがいても、果てしなく祈っても叶わない、その現実に向き合うことがきつくてきつくて。
あの子のことがいい思い出になり生きてた頃のようにパワーを与えてくれる存在になるまであとどのくらいの時間が必要なのか想像できません。
でも明日からも生きていかなくてはなりません。新しい元号なんて、あの子と迎えられない新しい時代なんて今は真っ暗だけど、ちゃんと生きていきます。
女性 。
昨日は受験でみんな家を空けていました。
朝いつもなら起き上がってくるのに起き上がってこなかったので、あまり元気がないなぁ…と、思いましたがみんなバタバタでりゅうくんが弱っていることに気づいてあげられませんでした。
家に着くと、いつもならりゅうくんが「おかえり!!」とでも言うように廊下を走ったり歩いたりして、迎えに来てくれるのに昨日は来てくれませんでした。また、不思議な匂いがしました。
もう歳なのでこう言うこともよくあるので心配にはなりませんでした。
でもベットをのぞくと朝と同じ姿でりゅうくんがねていました。
布団に顔を突っ込むのが好きなりゅうくん
母が布団を上げるとりゅうくんの目がぱっちり開いていて硬くなっていました。
まだ暖かく私が車に乗ったときにいなくなってしまったのでしょう。
りゅうくんは誰にも見とってもらえなかったのです。
ごめんねごめんねって言ってももう反応してくれませんでした。
おとといまで元気だったのに抱っこできていたのに…
最後は見送ってあげたかった
私たちがいなかったのは私のせい私のせいでりゅうくんは…
ベットにはトイレの跡もありました。
ずっと頑張ってくれていたのでしょう苦しいのにつらいのに誰も来てくれずに…
今日はあまり実感がありません。
箱に入り小さくなってしまったりゅうくんを見て、今はごめんとありがとうしか言えませんでした。
いくら泣いてもりゅうくんは起きてくれませんでした。
天国で元気でいてね次は見送ってもらってねりゅうくん。
50代以上 男性 昭和のじっちゃん
貰った犬なのですが、行ってみたら多頭飼育で充分な手入れがされず蚤とダニだらけで、毛は抜けたのがそのまま固まって板のようになっていました。 懐くのに1年程かかりました。
正確な年齢は不明ですが、連れて帰った当初2歳にはなっていないと言われていたので14歳過ぎたぐらいで他界したと思います。子宮蓄膿症でした。
家に来た当初、ネットの情報で避妊手術をした方がいいとの事は知っていました。しかし本当に身近に感じてはいなかったのだと思います。妻とも相談して病気でもないのに手術をするのも可哀そうなどと話していました。そのうちヒートが始まり犬の世話は私がしており、この手当が大変なのを身をもって知り、やはり避妊かと思いましたが、麻酔の危険性も獣医師から聞き結局しませんでした。
サラが不調になったのは昨年の十月でした。多飲多尿と陰部から少し膿も出ました。典型的な子宮蓄膿症の症状でした。病院でエコーをはじめ血液検査も色々と3回行い、膿は溜まっていないので抗生物質で様子を見ることになりました。ネットでは手術しないと直らないとの情報が多く獣医にも伝えましたが、他の患者も抗生物質で直っているからと、手術には消極的でした。 私も手術が怖いので抗生物質で治療することにしました。 1週間で症状はなくなり薬も辞めました。 ただここ2年程はヒートがはっきりとわからず出血が確認できない状態だったので、次回のヒートもよく計算できませんでした。
年末に別の病院でもエコー検査してもらいましたが、大丈夫との事で安心していました。
そして7月また膿が出ているのに気が付き、前回と同じ病院で検査してもらいました。今回は少し膿が溜まっているけど前回と同じ抗生物質で治療することになりました。
しかし1週間経っても全く膿は減らず、前回と比べ物にならない程出てきます。ほかに体調の目に見える変化はありませんでしたが、心配になり他の少し親しい獣医師に電話で相談しました。連れて帰った当初よく見てもらっておりペットホテルも利用していた病院です。
もはや抗生物質は効果がなく、犬が元気なうちに手術した方がいいのではとのアドバイスでした。
老犬だから、元気がなくなってからの手術は数日後亡くなったりする可能性が高くなるとの事でした。
それが木曜日で金曜日から一泊で県外の妻の母の引っ越しがあり、今日中に病院を決めたいと思い今回かかっている病院と年末に行った別の病院に連絡しましたが、都合がつきませんでした。両院とも翌週でないと無理と言われました。
初めて病院は嫌なので、過去に1回だけ行った職場近くの病院を思い出し電話で相談したらすぐ連れてくるように言われ、午後診察に行きました。前回行った時から場所が変わり新築してかなりの患者さんが来ていました。ネットの口コミもよく診察室がガラス張りで見えるのも好印象でした。
エコー X線 血液検査をし 特に問題もなく手術はできるとの事で一安心しました。
サラはキャリーに入れたまま、別れを惜しむと嫌な事が起きそうで、頑張れよとだけ言ってすっと帰りました。結局それが最後になりました。
金曜日手術が終わったころを見計らって電話で確認をしたら、すでに麻酔から覚め普通にしているとの事でやったーって思い喜びました。土曜の午前に引っ越しを終え真っすぐ病院に面会に向かいました。
そして病院につくと診察時の医師ではなく院長が出てきて診察室に案内されるので変だなと感じました。
そこでサラが今朝病院に来てみると亡くなっていたと告げられたのです。電話が3回あったのですが、全く気が付きませんでした。老犬なので血栓ができたのではないかとの説明でしたが、診察時はそんな話はありませんでしたが、高齢なので麻酔のリスクがある事は承知していました。
しかしこうなってしまうと全てを後悔しています。最初に避妊手術をしなかった事、昨年手術していたら、他の病院だったら、最後にキャリーから出して抱っこしてやれば良かったと悔やみきれません。
最後の場面だけがどうしても思い出されてしまうのです。楽しかった事の方が多いのに。
家は二世帯住宅なのでサラは二階の私の寝室で寝起きしていました。私が妻と過ごす時間は2時間程度でそれ以外はほとんどサラと一緒でした。 まだまだ愛犬の死を受け止めることができません。他人にも言えません。今は時間が経つのをただ待つだけです。
50代以上 女性 ミニチュアダックス女の子きなこのおかーちゃん
春に後左足を断脚、どうにか脚を無くさないで、病院3件も涙して回った、嫌だったよね、 手術痛かったよね、頑張ったね。
3本脚でも元気が戻り散歩も行けたね、後2年生きてね、なんて思っていた、
バカなおかーちゃん、
病魔はあなたの身体にどんどん広まっていたんですね、
八月、苦しかったよね、痛かったよね、ワンともなかず行ってしまいました、
あなたが元気な時、おかーちゃんが60歳になるまでは、生きてね、
あなたの最後の時、おかーちゃんが仕事休みの時まで頑張ってね、
全部守ってくれたのに、私はきなこちゃんを守れなかった、 こんなおかーちゃんなのに、親孝行の子でした、優しい子でした、
あなたがいたから、あなたが私の涙を拭いてくれたから、
一人で育てる事になり、仕事しないと生活出来ない
ずっとずっと留守番させてしまい、
寂しかったよね、バカなおかーちゃん、
これからは、もう何処へ行くのも一緒にだよ、
ずっと一緒だよ、絶対に一緒だよ、
きなこちゃん、もう一度抱っこしたいよ、
こんなわがまま言う、だめバカおかーちゃん、
ごめんね、ごめんね、きなこちゃん大好きだよ。
50代以上 女性 匿名
体力も限界だったのだと思います。3週間たった今でも、あの最期の時を思い出しては涙が溢れて辛く哀しいです。
まだまだ食欲もあったし、このまま緩やかな生活が続いてくれると信じていたけど…叶いませんでした。
最期の3日間、泣き顔しか見せなかった事を凄く悔やんでます。なので今は一生懸命笑顔で遺影に語り掛ける毎日です。
20代 女性 匿名
16歳生きた彼は、私の人生にかけがえのない存在です。
一緒に暮らし始めた時はこんなお別れを想像してなかったものですから、かまってとじゃれつく彼を鬱陶しく思うことも正直ありました。
でも、彼が家族の一員になってから、自然と笑いが増え、とっても幸せな日々が過ごせました。
大好きだったお散歩も、目が見えなくなってから随分とできなくなってしまったね。
それでも、目が見えないながらも大好きな取ってこいはずっとやっていたね。
私だったら、目が見えなくなったらできないだろうなって言うことをやってのけて、ほんと君はすごい子だよ。
死に目に会えなくてとても後悔してる。
最後に撫でたのも3ヶ月前かな。
悔やむこと、もっとこうすれば良かったなってこといっぱいあるけど、幸せだったかな?
私は君に出会えて、一緒に過ごせて楽しかったし、幸せだったよ。たくさんの笑い、幸せをありがとう。
またいつか会える日まで、先に逝ってしまった友達ワンコと遊んでまっててね。