犬を飼うまで気がつかなかった自分の性格
短気でした・・・・ええ、短気でしたとも
懺悔します。
以前の私は、とにかく感情的。喜怒哀楽のフリ幅が大きく、要するに短気でキレやすかったんですねー。怒鳴るわ足蹴りするわ引っぱたくわ、まさに“猟奇的な彼女” 。
(悪い意味で)非常にアツい性格でありました。
いや〜お恥ずかしい!! 今思えば完全に若気のいたりでございます。
そんな私も、まぁ、トシと共に丸くはなったものの、感情的なのは相変わらず。極端な感情のアップダウンは、エネルギーを無駄に使うに等しい。周りも迷惑だったでしょうが、自分も疲れる。そんな困った一面(いや全面か?!)を持て余しつつも、性格なんてそうそう簡単に変えられない・・・・・とあきらめの境地ではありました。
想定外のワンコとの暮らしが訪れて
思えばあれが運命の分かれ目であった!
家族が迎えたチビ犬を、思いもかけず私が飼うことになったのです。
犬を迎えた翌日、近所に捨てられていた仔猫を持ち込まれ、家族が数時間おきの授乳のため寝不足になり、仔猫の世話に犬の世話に「無理っ!」と音を上げたので、「じゃあ、しばらく私がワンコの面倒みよう」ということで、連れ帰ったのです。
1ヶ月限定のはずが、その一ヶ月後には「もらっていい?」。
家族も、里親を探す予定だった仔猫たちに情が移り、結局、自分で飼うことにしたので、あっさり「いいわよ〜♪」ということで商談(?)成立。
あ〜生きてる〜! あれれ?
まず自分の変化に気付いたきっかけは、ワンコのトイレ。
殆ど準備なく迎えたため、トイレトレーもケージもない中での同居スタート。
新入りが柱や扉の角に足を上げてチーッとやる度、「あ、あ、ああ〜⤵」と力の抜けた声を胸のうちで発しつつ、せっせと掃除。
ネットで注文したトイレトレーが届くまでの間、柱やカベにトイレシーツを貼り付けて対応。
黙々と掃除しながらふと振り返った時、叱ってなどいないのに、肩を落とし、うなだれて私がしていることをじっと見ていたチビ犬。
その様子が何とも頼りなげで、寄る辺無い心細さが伝わってきました。
「この子には私だけが頼り。そしてこの子も全身で私から何かを感じ取ろうと頑張っている。ここで足を上げちゃいけないことだって、ちゃんと分かってる。でもどうしたらいいか分らないだけ。絶対に絶対に叱るまい」と、心に決めました。
ある日、オシッコしたてで、もわわ〜んと湯気が上がっているシーツを取り替えていた時、「あー、生きてる♪」と感じたとたん、突然ジワッと涙がこみ上げたのには我ながら驚いた!
もともと、それほど神経質なほうではないけれど、ワンコの排泄物の温かさまで愛しく感じるなんて!!
そういえば、粗相の跡を拭くこともトイレシーツをしょっちゅう取り替えることも、さらには手にオシッコやウンチがついてしまうことも、まぁぁぁぁったく苦にならないし気にならない。
あの「あー、生きてる!」が、まさに私のブレイクスルー!
家中、粗相されても「あーハイハイ。今、片付けますよぉぉぉ。ちゃんと教えてないアタシが悪いんだよねぇ。キミは悪くないよぉ♪」という感じ。イライラすることもなし。
短気な私はどこいっちゃった???
イライラしない、怒らない・・というか怒れない
注文していたトイレトレーとサークルが届き、改めて「ワンコのトイレのしつけ法」にならい、トイレの練習を始めたものの、サークルに入れられたチビ犬が「こんなとこに入れないで!」となんとも悲しい目をしたので、「いいよ。分ったよ。いつかは覚える! 大丈夫! 汚したら掃除すればいい」と再び室内に放牧。
当然、あちこちに黄色い水たまりと茶色い落とし物。
慌てず騒がず、相変わらず何事もないかのように温かいオシッコを拭き、落とし物を「おお、今日も元気なウンチ♪」と拾う日々でした。
成功率が100%になるまで多少の時間はかかりましたが、まーったく問題なし。
気付けば気持ちはいつも穏やかで、犬だけでなく、人間関係でちょっとイヤなことがあっても全くハラの立たない自分がいました。
気長で鷹揚で楽観的。以前の自分からは全く想像できなかったことです。
犬が教えてくれた“シンライノチカラ”
犬を信じること、信じてもらえることの幸せ
ちょうどあの頃、大きな仕事を終えて時間的に余裕があったため、どっぷり犬に向き合えたことも大きかったとは思うのですが、相手を信じるだけで心に余裕が生まれる、ただ受け入れることで物事は必ず良い方向に向かう、それを実感できたのは幸せなことだったと思います。
トイレのしつけひとつとっても、「この子は賢い! 粗相で私が困ることもちゃんと分ってる! 」と、たとえそれが私の勝手な思い込みであったとしても、信じられたからこそ、どんな時もハラを立てずに、気長にのんびり構えていられたと思うのです。
また、そんな私をチビ犬も信頼してくれたと、これまた親バカの思い込みかもしれないけれど、それでも信頼されていることの充足感あったればこそ、互いに良い関係が築けたような気がします。
共に暮らし始めてからまだ1年に満たない頃、知り合いから「なんだか信頼関係ができてるって感じ」と言われたことは、本当に本当にうれしかった!
これまで本に書かれてきたような「犬のしつけ方」や「飼い主=リーダー論」を時に無視し、犬に対して感覚を研ぎすませながら、やってきた私の犬育てを肯定してもらえた気がしたのです。自信って不思議なものです。
スタートが犬であっても、対人面やら何やら、知らぬ間に色んなことに波及していくものなんですね。
愛犬との暮らしの中で、気付くといつもニコニコしている自分がいました。
まとめ
犬が教えてくれたことは、ひとことでは語り尽くせません。
あえて言葉にするのなら、「信頼し合える心地よさ、信頼が生む平和」ではないかと思うのです。
「私の信頼に懸命に応えてくれるあなただから嬉しい。あなたに信頼される私であることが嬉しい」そんなふうに、温かな連鎖がどこまでもどこまでも続くのが犬との生活ではないかと思います。
イラつく必要のない心はいつでも平和です。
人間が嫌い、自分のことも嫌い、犬は裏切らない、だから犬が好き、という人もいるけれど、どうか、そこで自己完結しないで! と言いたい。
しっぽフリフリ、明るい目で見上げてくれる犬を前に、人は無防備にならざるを得ません。
人が嫌い、自分が嫌い、でも犬は好きと言う人ほど、無防備になれる安心感と、「自分は犬達に愛され得る良い人間である」と確信させてもらえる心地よさを誰よりも求めている気がする。
人間嫌いは、実は人間社会に失望し、自信を失い臆病になってしまったことの言いわけ。「人に対しても無防備でいたい」「自分のことを愛したい。自信を取り戻したい」って、切なる思いの裏返しじゃないんだろうか。
「与えているようでいて実は与えられてもいるのだ」ということに、目を開いてほしい。
犬達は私たち人間に、心を開くこと、信頼すること、ひいては愛そのものの何たるかを教えてくれているように思います。
愛は地球を救う、ではないけれど地球の小さなかけらである犬達を愛することは、人も犬も区別のない壮大な愛へと開かれて行くのではないか。
いや、ぜひそうありたいし、そうであってほしい。
殺伐としがちな今の時代に生まれた、犬達の持つ使命はとてつもなく貴いものだと思います。
私は、ひそかに犬を「愛のポータルサイト」と呼んでおりまする。