15年、共に暮らした愛犬をひとりで見送った日
もう何年も前の、ちょうど夏の終わりの蒸し暑い時期、どんどんやせ細って行く、なのになかなか逝くことができないでいる愛犬の看病を続けていました。
獣医さんからは「輸液をするくらいしか、できることはない」ということを言われ、もう、点滴に連れて行くことしかできない状況でした。
このまま家で看取ろう・・・。
そう決めた私にできるのは、ただ文字通り最後の日まで付き添うことだけ。
水ももう飲めない、食べることもできない、それでも呼べばもの憂げに目を開いて応えようとする。
でも、それすら可哀想で、名前を呼ぶこともはばかられてしまう・・・そんな日が1週間ほど続いたある日、玄関でパタリと倒れたまま動かなくなってしまいました。
「もういいよ、逝っていいよ、逝きなさい。ありがとう、本当にありがとうね」と、繰り返し繰り返し声をかけ体を撫でながら、耳をそっと心臓に押し当てると、しだいに遠ざかる鼓動。
最後に深い深いため息を吐くと、その息と共に天に帰っていきました。
もう意志がなくなり力が抜け切った亡骸を抱きしめ、私はただただ泣きました。
15年共に暮らした愛犬を腎臓病で亡くしたその日、亡骸をペット斎場に運ぶ途中で、夏の終わりを告げる雨が降り始め、その日を境にきっかり秋が訪れました。
後悔と罪悪感が一挙にやってきた
体力を奪う暑さからやっと解放されたというのに、それから数日間、私はバッタリ寝込みました。
1週間つきっきりの看病では、気持ちが全て愛犬に向けられていたので、まともに食べておらず、体力が落ちていたのです。
でも、そのことより何より、たくさんの罪悪感が一挙に押し寄せてきました。
なぜもっと早く異常に気付いてあげられなかったのだろう・・・
もっとできることはなかったのか・・・
すでに具合が悪くなり始めていたであろう時期に、ベランダの戸を勝手に開けて外へ出ていたのをきつく叱ってしまったこと。
あれは、きっと体がやるせない中、太陽の熱を浴びたかったのかもしれない。
なんで叱ってしまったのだろう。
なんで気付いてやれなかったのだろう。
「かわいいっ!」「だいすきっ!!」と日々、口にしていたくせに、結局は何もしてやれなかった身勝手で無力な自分がつくづく嫌で嫌で仕方が無い・・・
悲しくていたたまれない日々が続きました。
可愛いもの、か弱いものを見ただけで号泣?!
しばらくして、自分が妙な体質に変わったことに気付きました。
人間の小さな子どもでも、道を歩いている野良猫でも、可愛い小さな存在を目にするだけで、ワッと感情がこみ上げ、涙があふれてくる。
人前だろうが街中だろうが全く関係なく、考えるより先に体が反応して、涙があふれてくるのを抑えようがないのです。
また、人と話していて動物の話題になると、それだけでもう感情がたかぶって、発作的に嗚咽がこみあげてきて涙、涙、涙。
しまいには雑貨店で、かわいい動物キャラクターのグッズを見ただけで泣けて泣けて仕方がないと言う特異体質に・・・。
また、部屋の掃除で家具のウラからホコリを絡めた犬の毛がフワフワ出てきては、ギクッとして胸がずきずき痛み、太陽に干した布団のにおいをかいでは、愛犬の温かな体のぬくもりとにおいを思い出して涙してしまう。
もともと、あまり感情を高ぶらせることはない性質で、滅多に泣くこともない自分が、いちいち感情を揺さぶられて涙するなんて・・・。
これがペット・ロスだとは、人に指摘されるまで気付きませんでした。
「ペット・ロスってそういうものよ」
「何を見ても泣けちゃうの」と話したら、友人が「ああ、分るわ。私もうちの犬を見送ったとき、同じだった。でもペットロスってそういものよ。時が癒してくれるわよ」と。
子どもの頃から何匹もの犬猫を見送ってきたので、動物がいつか必ず死ぬのは自然なこと、泣いて騒いで引き止めたらかえってかわいそう、と心のどこかで思っていたので、動物達を看取る時、そしてその後も、いつまでも情に縛られて嘆き悲しまないよう、幼いながらも心をコントロールしてきたつもりでした。
その私がまさかのペット・ロス?!
でも考えてみれば、長年共に暮らした動物をひとりで見送ったのはこれが初めてのこと。
命に対する責任と失った時の悲しみを、ひとりで背負うことの重さを味わったのも、これが初めてでした。
ところ相手かまわず涙があふれるのは困りものだけれど、仕方がない。
自分ではどうにも抑えられないのだから、これは時にまかせるしかない・・・
心を癒してくれたぬいぐるみと地域猫の存在
そんな心境で過ごしていたある日、デパートの中をぶらついていて、何かに見られているような気がしてふと振り返った時、バチッ!とクマのぬいぐるみと目が合いました。
ぬいぐるみと目が合うなんてヘンな話ですが、本当にそうだったのです。
クリスマスが近く、特設スペースにたくさんの可愛いクマのぬいぐるみが積まれ、そのてっぺんにチョコンと座っていたのがそのコ。
一緒にいた友人が何もかも了解したかのように、迷わずその子を買ってプレゼントしてくれました。
悲しみに埋もれて小さく縮こまっていた、何かを愛おしむ気持ちが少しずつ蘇ってきました。
かつて愛犬とそうしていたように、ぬいぐるみを抱えて眠り、話しかけ大切に扱う・・・。
意図してそうしていたわけではなく、そうせずにはいられない温かな気持ちが自然とわき起こってきました。
いいトシした女が・・・と我ながらあきれはしたものの、それでもそのクマのぬいぐるみが果たしてくれた役割はとても大きかったのです。
また、ちょうどその頃、近所の地域猫と仲良くなりました。
スーパーに行く道の途中でよく寝そべっているその猫を撫で、話しかけるうち、動物と接するつらさが和らいでいきました。
しばらくは、こうして外猫と触れ合うだけで十分・・・そんな気分で。
最初の頃は野良猫や散歩中の犬を見かけるだけで、慌てて目をそらさなければならないほど、胸が痛んだものでしたが・・・。
いつしか、可愛いもの、小さな弱いものを見るたびに激しく動揺していた心も落ち着き、涙を流すことも少なくなっていきました。
それでもまだ、「みずから求めて動物を飼うことはすまい」という気持ちは変わらず。
でも「もし、何らかの事情で私が飼うしかないという状況になった時には、それを受け入れよう」と、少しずつ閉じられていたものが開かれて行ったような気がします。
「私は飼い主として失格」そんな思いに苛まれ、「もう二度と犬は飼わない、飼えない」と思いました。
再び犬を迎えて
その数年後、「私が飼うしかない」やむを得ない事情が生じ、現在の愛犬を引き取りました。
まだ生後6ヶ月で、あどけなさが残るその犬は、私のもとに来てからというもの、安心したのかどうなのか、やたらと眠ってばかり。
なんとも無防備な仰向け大の字でいびきまでかきながら。
その様子を温かな気分で見守っていたとき、ふと亡くなった犬の姿が重なると同時に、目前の眠る犬の姿が、いつか必ずやって来る最後の日の姿をイメージさせ、またもワッと涙がこみあげて号泣・・・・。
「またあんな思いを味わうの?」「嫌だ!!」と。
我ながら、ずいぶん悲観的な考え方をしたものだと思いますが、まだまだペット・ロスの延長線上で生まれた感情だったのだと思います。
友人に話したら「何やってんのよ~!重症だね!」と笑われましたが、でもその友人もかつて大切なペットを見送ったことがあり「でも、わかるよ」と。
新たなワンコを迎えてからも、その子がすやすや眠る姿を見ては泣いてしまうし、先の亡くなった愛犬の話を人にする時にはワッとこみあげるという情けない状態が、ずいぶん長く続いたように思います。
それでも、新しい生活の中でいつしか間遠になっていき、気付くとペット・ロスの症状は消えていました。
それと入れ替わるように、「最後の日に後悔しないよう、めいっぱいこの犬を幸せにしよう!」という気持ちが生まれ、犬のトレーニングや心身のケアに関する学びにつながっていき、今日、こうして犬の記事を書くに至っています。
さいごに
愛すれば愛するほど、そして看病に懸命になればなるほど、失った時の反動が大きいのは仕方がないこと、と今は思えます。
その反動であるペットロスも“ 心の問題 ” ではなく、愛犬の死を通して命というものに対する新しい何か大切なことに気付くために必要なプロセスなのだとも、思えるようになりました。
そうは言っても、そうした“気付き”は、紆余曲折を経て少し後になってからのこと。
その間、もの言わぬ小さなぬいぐるみが、行き場を失ってしまった私の愛情を引き受けてくれ、周囲の動物好きな人たちが、突然泣き出す私に、笑いながらも「うんうん、分るよ。みんな同じだよ」と気持ちを共有してくれたことが、大きな慰めになりました。
悲しみそのものは、やはり時の経過にまかせるよりほかありません。
たくさんの後悔も自分を責めることも、どうしたって避けることはできません。
無理に押さえつけようとしても、それは逆効果。
悲しい気持ちを、あえて楽しかった思い出に振り向けることも、きっと難しいことでしょう。
あふれる涙は、流れるがままにすればよいと思います。
泣いて泣いて、涙が枯れる頃、ふと、心に余裕ができたなら、彼らがもたらしてくれたものに思いを馳せれば、後悔は感謝に変わり、自分に対する責めは、次にまた迎えるかもしれない命(今はまだそんな気持ちになれなくても)に対しての小さな決意、もしくは自分の身近にいる小さな生き物たちへの優しいまなざしへと、変わっていくのではないでしょうか。
ユーザーのコメント
40代 女性 匿名
いくらいろいろ前向きに頭の中で考えようとしても、心の中が真っ暗になってしまって今はじっとするしかなさそうです。
遮光カーテンをしめても、光が眩しくて。。。アウトドアが大好きだった今までの自分とは別人のよう。
とてもこの先の事が考えられません。
愛犬は私の一部でとても大切な存在だったんだと感じています
50代以上 女性 ねむねむ
匿名さん! その後生活の変化はありましたか?
私にも いつかはやってくる わかってはいてもきっと ペットロスになります
乗り越えられるかなぁ
40代 女性 匿名
家族もすべて暗い気持ちと後悔ばかり。
こんなに辛いとは思わなかった。
亡くしたワンちゃんの兄と弟が居てくれますがこの子たちもいなくなったことを受け入れられないようです。
亡くなった子が病院はきちんと選びなさいと、検査はちゃんとしてって言ってるかのように思えて次の日全て検査してきました。
ペット霊視してもらったらパパが大好きでパパの病気を全て持っていってくれたと言われました。
ただ、こんなに苦しいんだって
本当に苦しかった
その事がとても辛いです
前日、夜中吐血して一晩中抱っこしたりして朝一病院にいって待合室の椅子で呼吸が止まりました。
先生が蘇生してくださり1度はICUに入ったのですが急変
迷惑をかけないように日曜日に逝ったのかな
介護の辛さあじあわせたくなかったのかな
本当に辛い
30代 女性 バーク
手術出来ないところにガンが出来てわかってからかなりのスピードで弱って行きました。1ヶ月前はお肉の匂いでピョンピョン跳ねていたのに。
思い出すのは元気で可愛い姿ばかり。
私は母と父にほとんどお世話を任せていました。なぜなら結婚をし、子供が1年前に産まれました。
自分の子育てに追われ自分が飼いたいと決めて連れて帰った子を最後はそばにいてあげられなかった事が後悔でしかなくて、辛いです。寂しかったのではないか、産まれてから愛情が向けられず、逆にダメよ!って怒ったりした事もありました。
辛いです。ごめんね、バーク。
母と父にお世話を任せた事、最後あまり動かず夜中の徘徊や嘔吐下痢のお世話大変だったよね。ありがとうと伝えました。
なくなった愛犬の温もりがまだある体を撫でている時に産まれて1年3ヶ月の生命力溢れる我が子がニコニコ笑顔で優しく撫でている姿を見て
命の尊さを感じました。
何年も不妊治療をしてやっと授かった子です。
本当に命の大切さを感じています。
周りの家族に感謝。
たくさんの思い出をくれた愛犬に感謝。
ありがとう。
こんなに長文をここに書き込んでしまってすみません。
読んでいただきありがとうございました。
40代 女性 匿名
50代以上 女性 匿名
50代以上 女性 さくらとらくだ
50代以上 男性 tosisann
女性 匿名
その間、2人子供が産まれ、育児に追われる毎日で、もっともっと可愛がってあげたかったと後悔ばかりの日々です。
最後の一年半は膀胱炎を繰り返し介護生活で、膀胱炎から腎不全を発症していたのに気づいてあげられず、、反面、できる限りのことはやってきたと、自分に言い聞かせるの繰り返しで、まだまだ哀しみから抜け出せそうにありません。
また元気を取り戻し、家族みんなでお散歩に行くんだと、ペット介護について勉強しようと思っていた矢先のことでした。
この記事を読んで、みんな同じ気持ちでいるんだなと思い、おもわず投稿しました。
後悔しないようにとどんなに可愛がっていても、いなくなってしまった悲しみは必ず訪れますね。
いなくなってしまってから、どれだけこの愛おしい子に支えられていたかを痛感してます。
命の尊さと感謝の気持ちを再確認できました。
長々と失礼致しました。